ポエム Advent Calendar 2015 12/24
何一つ役に立たない情報だったり、食レポだったり、冗長性を極限まで高めたムダに長いエントリだったり、言ってること全部間違っていたりするエントリを集めて百物語を作るプロジェクトです。諸注意
ポエムですが,初心者が間違って見て鵜呑みにしないようにエントリの先頭または最後に「この記事に書いてあることを鵜呑みにしないでください.全部間違えてます」みたいなことを書いて頂けるとありがたいです.
本日は12/27。
ポエムの定義
わたしたちにはときどき、自信に満ちてものごとをしゃべってみたくなるときがある。馬鹿げたことだが、その場を離れてから急に恥ずかしくなる。いろいろおもった筈のことが、あれもこれも謂ひ損ねて、ひとりで補足しやうとしてみるのだが、もう熱が冷めてしまってうまくいかない。あのときにあったイメージは空虚で、論理的な構成物に成り果ててしまふ。言葉の定義のことがわたしたちの腦裏にやってくるのはそんなときだ。よく考へれば言葉と現実が対応する関係などまったくわからない。言葉といふものをそれをイメージするわたしたちを透かし通して、直接に現実対象との函數をとらうとするから、わからないなどと謂はなければならなくなってゐるのは明らかだ。だがここではまだ逆説から逃れられない。現実と現実のあいだでイメージが通り抜ける精神の函數を、わたしたちはまだ科学的にあまりに知らな過ぎる。わたしたちの個体は薄くすくない常識らしきものに浸ってゐるだけで、それを超えた普遍性の範囲までなにかを述べやうとするには、言葉が現にもってゐるイメージを踏み外してしまふ。現實は言葉によらず大きな體系で動いてゐるやうに見える。あちらで話されてゐる論理はすべて偽りと護摩化しに聞こえる。言葉の定義を求めるとき、わたしたちはなにもただひとつの實體をもとめることまではしない。多分それは先驗的な正しさ、わたしたちを放棄して無のトートロジーにすべて (の任意さを任意に) 対応づけやうとする、過ぎた要求である。それよりも、手元を離れてトートロジーに託されてしまってゐる言葉に、イメージがその論理に転化する場所を見附けて定義と呼ぶことになる。
ポエムの定義を考へるのに、わたしたちはどこから出発できるだらうか。これはポエムですよ、と聞かされてわたしたちがはじめに受け取るのは、これはなにかを主張する文章だが、学術的に発展した「根拠」といふ概念の手続きを行ってはゐない、そして「根拠」の無さの不安と驕りを詩といふ文學のジャンルに託した、言い訳めいたイメージだ。このはじめの段階では謙遜も驕りもおなじものだ。そこでポエムとは、みずからに過ぎた主張を、現在にもまだ通用する非専門的な文學のイメージに託して書かれた文章だといふイメージが残る。それから詩ではなくポエムと呼ぶ、前専門性のイメージがある。わたしたちが受け取るもうひとつのイメージは、論理の及ばせ方を知らない領域にある感情から、論理の発達を待たずに肯定的な世界を集約し作りあげやうとするものだ。信を実務的に行使するバランスのよさと、存在するかだうかもわからない痩せ細った専門家を待つだけの弱き者ではないといふことが美徳となる。貧弱な論理と過大な感情が、こちらで残される理想的なイメージになる。
わたしたちは、はじめのイメージを外からの貧し過ぎる像とし、ふたつめを内からの理想化し過ぎた像として、ふたつの線の交わるところにポエムの定義を想定する。
だがここから平行線のやうにずれた「ポエム」のイメージを想定しておかねばならない。わたしたちの認識は現実からの計算像としてある。物質からの放射は神経の入力に分解されて、未知の計算を多重に経て精神へやってくる。この計算群をスクリーニングしフィードバックする過程のどこかに意識がある。意識のこの像をとりあへず有用だとみなしてみる。わたしたちの関心は、論理や感情に現実的な基礎を想定できるだらうかといふことだ。言葉の表現内容 (イメージ) に、表現行為からいちおうは独立した現実との対応を考へられないのか。言葉によって喚起されるイメージを、現実のなかに対応する「方法」はないだらうか。この論理的な方法を、わたしたちは直感としておぼろげにもってゐる。この直感のつくる距離が、非専門的な表現文と、論理的な形式を模した「ポエム」との平行な差異だ。或る領域でこの平行線がみえないのなら、わたしたちはただ、その領域にかんしてわからないと表明するべきなのだ。
各記事に就いて
ポエム Advent Calendar 2015の各記事に対する感想を述べてみる。
12/01 バカ大学周辺飯事情 - Away from keyboard
食レポ。食レポといふより紀行文の趣き。食レポとして有用かは怪しいが、北千住紀行文としては有用。
12/02 思想は如何にして可能か 前Ⅰ - c4se記:さっちゃんですよ☆
わたしが書いたもの。長くてしかめつらしいのだが、「ようわからん」と一言で要約できるのでポエム度は高いと思ってゐる。
12/03 文字列プログラミングのススメ · GitHub
できることをただやっただけで面白みも薄く、できることをただやっただけなので突っ込みどころもない。ほぼポエムではない。
12/04 高速文字列処理ライブラリを作った - prime's diary
才氣に溢れてゐるのだが、「高速な文字列処理ライブラリ」と表明してゐるのに「Aだけでできた文字列以外に対しては間違った結果を返す」と云ふ言明が大変ポエム度が高い。
12/06 Brainfuck短歌 - うさぎ小屋
Brainfuckを鑑賞することを以て短歌と呼ぶ点がポエムだが、内容はほぼポエムではない。
12/13 セル・オートマトンは進化論の夢を見るか? - hnagamin
「ポエム Advent Calendar 2015」に於ける「ポエム」の定義に最も合致した記事だ。論説の形式と語彙を模してゐるが、内容は間違ってゐる。論理のやうに見える日本語の形式は模してゐるが、論理は模してゐない。空疎な感情と感情の空疎で語彙を結びつけ、無論理を補ってゐる。それがよく観察され再現されてゐる。
12/18 はじめてのにき(2015-12-19)
これも無論理の「ポエム」を再現しやうとしたものだが、筆者が恥ずかしくなってしまってゐる。無意味な権威の前に正しい論理を通さうとしてしまってゐる。次點といふべきだ。
12/19 FactoryGirlの一日 - /dev/nona (いっと☆わーくす!)
普通の意味でのポエムだ。名前の勝利だ。
12/20 これからの時代を担うであろうCSharpについて - 肌の塗りを極めたさあるよな
少しづつ間違ふ細やかな「ポエム」だ。この形式のまま単純に長文にしてゆくだけでより細やかな「ポエム」ができあがる。
12/23 人はなぜ考え、どのように生きるのか、我々を待っているのは何者なのか - 私が歌川です
「人はなぜ考えるのでしょうか?」「人はどのように生きるのでしょうか?」「我々を待っているのは何者なのか」といふ三つのことが問はれてゐると表明されてゐる。第一の問いは、問ふと表明されてゐるにも関らずまったく問はれてゐず、残る二つの問いは問ふフリすらされてゐない。「ポエム Advent Calendar 2015」の定義に沿った「ポエム」である。
12/24
この記事だ。非専門性といふ意味でかなり正確にポエムだとおもふ。