c4se記:さっちゃんですよ☆

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思想は如何にして可能か 前Ⅰ

ポエム Advent Calendar 2015 12/02

何一つ役に立たない情報だったり、食レポだったり、冗長性を極限まで高めたムダに長いエントリだったり、言ってること全部間違っていたりするエントリを集めて百物語を作るプロジェクトです。

諸注意
ポエムですが,初心者が間違って見て鵜呑みにしないようにエントリの先頭または最後に「この記事に書いてあることを鵜呑みにしないでください.全部間違えてます」みたいなことを書いて頂けるとありがたいです.

前Ⅰ

形式的推論はなぜ正しいのか。それ以外に正しいものはなぜ発見できないのか

考えの正しさはそれを述べるに至ったということを前提にしなければならないのか

「私」が特別なのは、所与の直接性の領域であるという点で、あいかわらず間違いがないようにおもえる

問題はそこではなく、「此の経験」という、という「という」という操作の根拠が、此の経験を先験的なものとした場合、この概念を成り立たせる根拠が、概念により成り立つイメージの域に由来せねばならないことであった

循環ではなく、代補の構造であるから、わたしは先験性の概念自体をつくりなおさなければならない

絶対の確実性といふ概念をわたしは手放さない

吉本隆明にとってはじめから絶対性は像領域の問題であった。書く、といふ像化の行為で解消しつづけた

書く行為が不確実性にはばまれるたびに、彼男は書く自己に不確実性を背負い、像化する術をこころ得た

ここ十年になぜ吉本隆明の考えがわたしに役に立ったかというのは、根源的にはわたしが吉本隆明とあらゆる問題への同じ解決法をとっていたからだ

数学の「正しさ」と物理の「正しさ」の違いはなんだろうか。数学の「正しさ」は、公理の記号列と推論の変換規則に於ける、定理の正しさである。数学の「正しさ」に、〈実験〉の概念を入れれば、物理の「正しさ」と同じだとみなせるだろうか

数学に付加する〈実験〉としては、とりあへずは計算的な〈実験〉をかんがえる

わたしは純粋なものを求めているという。純粋なものなどないというあなたをわたしは即座に否定する。わたしは純粋なものがあるのではなく、純粋なものを求めるといった。これは事実である。純粋なものがないことによって純粋なものを求めることは否定されえない

これは人間の求める超越性の根拠であるはずだ。超越は無い。しかし超越が無いことによって人間精神の求める超越性は否定されえない

言い方が悪い。人間精神が超越性を求めることは、超越性が無いという明らかなことによっては解決されえない

まだ言い方が悪い。逆方にも言われなければならない

問題は、絶対の正しさを、「求めない」としても、全ての筋が通りそうにおもわれることである

絶対の確実性を「求めない」という場合、「求めない」という意識があってはならない。その意識が、絶対の確実性を求めないという絶対性を明瞭にしているからだ

しかし絶対の確実性を「求めない」という状態は存在する。「絶対の確実性」について、肯定も否定も結果として考えなければよい。そして筋は通るのである

では「絶対の確実性」を結果として考えてしまった場合には世界が反転するのか。この層でも同様の筋が通る。それが考えている「絶対の確実性」は、「絶対の確実性」ではないので、結果として考えていないのだ、というふうに

明らかにこれは昔風の永遠極限の考え方だ。このように絶対の確実性を永遠極限にかんがえれば、絶対の確実性と、筋の通っている世界を、フラットにしながらも峻別することができる。筋の通った世界と、絶対の確実性を、矛盾させたままどちらも捨てずにいられる

永遠極限によって、われわれは絶対の確実性を考え「ない」。考えないのは像化されない超越の領域では考えることであるが、考え「ない」という阻止によって、われわれは超越を考え「ない」

即ち非像的なものとして「想定された」超越が、既に像化されたものとかんがえている。この言い方は正しくない

先の後半の、この言い方は「正しくない」とは、筋が通っていないという層の意味である

こんな汎神論によって、像化という概念自体がこの層では意味がなくなり、われわれは超越的なことをまったく考えていなかったので、超越的なことを考えない必要もないことになる

そうなれば初めの、像化操作の根拠自体が像化された像のなかからやってくる、ということは、問題であったのだろうか

筋は通っているのだ。わたしたちは絶対という概念を捨てればよい。それによって絶対という概念を捨てる必要もないのだ

この前後の「絶対という概念」に違いは無い

われわれが挫いたのは、絶対がすべてに先行し、先行しなければなにも、という自殺だけであるように思える

だがこれは事実ではない。永遠極限の治癒が効果を持続するのは、永遠極限の峻別が記憶される間だけである。永遠極限は実際にはなんの効果ももたない。永遠極限は達成されれば効果を失う

永遠極限の峻別は論理的に最も厳密で極端であったために、峻別が消えるというものであった。消えるのではない。われわれは峻別を考えなかったのだ。峻別を考えるのが不可能であるからではない。峻別を考えるのが不可能であることが不可能であるからだ

不可能であることが不可能であることが不可能である、ことにはならない。われわれは阻止される。無限退行は可能である。峻別を考えるのは不可能である、というのが無限退行である。無限退行しなければ到達できない、とおもわれたものが「不可能である」といはれる

無限退行の無限退行の無限退行の…という無限退行も同様である。無限に公理を付加しつづける無限退行は可能だ。不可能である、というのは、「不可能である」という、この事態である。このようにして阻止される

はじめ絶対の確実性は、不動点として絶対に存在するかにおもわれた。絶対の確実性は無いと主張する場合、その主張が絶対に確実でなければならないからである

しかし絶対の確実性は無いという世界も、矛盾をもたずに成立することが示される。それには永遠極限が「必要」であった。それは絶対の確実性を考えた場合、それは絶対の確実性ではないとすることによってだった

「絶対の確実性を考えた場合、それは絶対の確実性ではないとすることによってだった」の二回の「絶対の確実性」に距離は無い

像化の操作は、汎像化によって操作を無化しうる。汎像化によって遡行は阻止される。遡行は行われ求めたものを得る。それが阻止である

ここで絶対の確実性は無いという世界像は、絶対の確実性が有る世界像を表に貼り付けて、成立する

なぜこの世界像を考えなければならなかったのか。絶対の確実性という概念を考える場合、われわれは絶対の確実性を得ていないのになぜ絶対の確実性を考えることができるのかという問いにこたえる為だった

絶対の確実性の像をわれわれはもっている

「絶対の確実性は有る」といふのは絶対に確実である。これは成り立ちそうにおもえる。問題は、ほかに絶対に確実なものはあるだろうか。もし無いなら、それは絶対の確実性が無い世界と同じことである

絶対の確実性を求めることはできる。それには有効な範囲を世界の一部に限定しなければならない。自覚といふ契機をいれても無駄だ。絶対の確実性が、世界の〈全体〉に及ぶことはない

論理に依拠して述べることと、与件を認識することの、座が同じであるというのが、デカルトから現象学までの間違いである

自覚を明証だとする間違いは、認識すると述べながらその対象を認めず認識と存在を等しいものとしたこと、それから、論理によって述べるまでに至った私を除いておき、論理的に存在しなければならない私と、認識され存在しなければならない私を等しいものとしたことである

〈自覚〉でわれわれは常に躓く

なぜわたしたちは前提なく正しいことを求めてゐるのか

私が後験的に、先験的な正しさを決めることが大切だ。わたしたちは正しさの先験性を嫌ったのだ

わたしは哲学とはなにか、考えるとはどういうことか問うていない。哲学や思想とはそのようなものだ、という像にわたしは興味関心をもたない。わたしがこれから考えることだけが、いまわたしが考えるべきことである

論理の正しさは、論理の公理をすべて定めたあとの、運行の正しさである

われわれが論理の正しさというとき、公理の意味の正しさにすべてを集中させているのではないかという像はもっともである。しかしわたしはこの問いを捨てることにしよう。推論に暗黙に導入される、非数学的な常態にも関心をもたないことにしよう

論理の運行は「正しい」。なぜかという問題に集中してみることにしよう

わたしの不安は根源的だ

わたしが自己をあるものとして構成する。そのとき他者も、わたしをそのようなものとして構成するように他者自身を構成する。性別もまたそうだ

記号的な論理の運行を、論理の計算と呼ぶことにしよう。論理の計算は「正し」く思える。すぐにおもいつく説明は、人間精神の関数的な性質や、物理の論理的性質に還元してみるやり方だ。だがこれは、像域の中をスライドさせていっているにすぎない。われわれは不満だ

わたしたちは論理の計算はなぜ「正し」く思えるのか、という問題に集中してみる。この問題は、わたしたちはなぜ絶対の確実性の像をもちうるのかという問いと同じものだ

論理計算の確かさを問うとき、わたしたちは確かに思考するのに何故推論してよいのか問うことにもなる

記号列から記号列への定義と定理をつかった推論は、フラットな含意の記号列に置き換えられる。また置き換えてよい

ある定義と公理が成す論理空間を、単一に示すことになる。この論理空間では時間的な推論は存在しない。こうしてわれわれは論理の問題から思考の問題へ移る

(論理)計算はなぜ確かかと問うのに(論理)計算を使うのは矛盾ではない。わたしたちは(論理)計算は確かだと仮定しているから

だが何故確かかと問うのは奇妙ではある。ではなにが確かでないというのか

問題を論理の運行に限定したとしても、論理の運行が確からしいという期待は確実性の像を前提しているので、絶対の確実性の像とはなにかという問いとなにも変わりないのではないか

結局わたしはなにを問うのか。いかにして確かな結論を述べられるのかという一点だ

絶対の確実性は思想の最終の根拠ではないが、絶対の確実性を求めることについていえば、絶対の確実性を求めることは思想の最終の根拠を求めることである

思考することにいえば推論は除き得ないが、結論を述べることだけなら、推論を根拠から取り除けるように見える。しかしわたしは事柄を述べるとき文法的に述べ意味的に述べることを考えてみる。推論は除きうるだろうか?

文法も意味も推論の関数的性格そのものである。そこで言語で内語し外語する以上、推論は除き得ず、除く必要もないといいたくなる。この像はもっともに見えるが、「もっともそうだ」という以上に根拠は無いのだ

やはりわたしたちは「正しそうだ」という直観に問題をすべて集中させてよいのだろうか。だがわたしたちは「正しそうだ」という直観にすべてをゆだねられない

直観に最後をゆだねるのは、そこで追究を打ち切ることだ。だが不都合だろうか? 直観をゆるがすのは不安や不満、正しくなさそうだという直観である

わたしたちは同じところをまわっているようだがじりじりと深まっている。では「正しくなさそうだ」と不安や不満や疑念を感じない言述は「正しい」のだろうか? これはありそうだ。ただそんな言述はありそうもないことを除けば

だがここで、疑問提示不可能性と永遠極限のように、妥当性ともいえそうな概念を全否定したりせずに、妥当性は確実性の考察の後にくるものではなく、同じ水準で考えようとしてみる

この、窓関数のように、超越の有限の幅をかんがえるのが、像の停滞にしずんだ何年ものあいだにわたしが得た唯一の進歩だ

そう考えるほかない、や、そう考えるのがよさそうだ、ということを絶対の確実性と同じ水準で考えてみる

これは絶対の確実性を求めることを絶対の確実性と同じ超越論の水準で考えることに対応する。それは〈自覚〉の契機を特異点としてでなく契機のまま論ずることに対応するだろうか

わたしたちは確実性を論ずることを検討してきたが、明証性を発見することは充分に検討していない

現実を説明すらできない哲学は貧弱であり、世界を批判するのは不当な言葉の拡大によるまちがいに過ぎないと考えるならば、倫理はまったく不要だろうか。しかし世界がおなじく思考のまちがいで満ちているならば、倫理はなんらかの経路を必要とされるだろうか

言葉は同じ名辭(名詞・動詞)で自然に名指されたからといって同じ意味をもつとは限らない。言葉の意味は言葉の使用により外的に分析されねばならない。内的な過程を無視すべきだというのではない。言語の内的な過程(内省)を無視して使用の分析は無理である。分析は、使用と内省の対応を分析するから

〈概念〉では、おなじ名辭(名詞・動詞)で名指されたならば同じ意味を示すことを要求されるように思われる。同じ名辭で名指されたなら同じ意味を表すへきだ、と要求されることを、概念の定義だとみなせるだろうか?

わたしが言いたいのは、考察は前提を与えるものである為に、恒等式ではありえないということかもしれない。では考察とは、現実の困難に対応する命題を推論するために、充分な前提を一覧し、前提のセットを比較してよいものを探す問題に置き換えられるのだろうか?

論理的に無意味な恒真命題、全与件や此の経験や永遠極限が、現実的に意味をもつのはなぜか

わたしの意志と恒真命題

なにものをも前提としないということは、なにかを前提としうるという点で論理の存在を肯定していること

期待は成功あるいは成功の仮想の体験に基づく

しかしなにものをも前提としないことは、無であるとして逃れうる。この無は真の無であるべき為になにも導きえないはずだが、この無がもともと否定であった、否定から仮想されたという点で効果をもつ

この無は任意の否定から導かれるだろうか。ならば任意の効果をもちうるだろうか

わたしは任意の思想に満足できなくなっている。そこで思想を求めている。わたしはどんな仮想にも疑念を見つけだし、遡行する。しかし任意の思想に満足できないというのは恒真命題ではなかろうか。どのような恒真命題だろうか

「こう考えるしかない」という判断は背理法に過ぎない

フッサールは、根拠づける、真理に近似して近づいてゆくとして概念を正当化しているが、この近似の概念はまったく承認できない。近似してゆく、常に摂動論が成り立つ保証はないから

どのような方法で考えても否定できないものとして二つのことを挙げられる。推論するということ。私という統一した観念

命題論理や一階述語論理が正しいかはわからない。他の論理をつくることができ、またわたしたちの推論が精密にどんな論理形式になるかはわからない

だが「推論する」ということ、論理の形式を考えることができることは、われわれが「ゆえに」「なぜならば」と推論している限り否定しえない。この否定しえなさは論理的である

私という統一した観念も論理的に否定しえない。論理的な否定を考案できない。この二つは恒真命題である。恒真命題であるが、思考の上でという前提が存在する(この前提は先二つの恒真性を侵害しない)為に自然なイメージをもちうるようにも思われる

だがもう一度、以前の議論を辿りなおして、この命題を吟味する必要があろう

推論をまるごと認めてよいのなら、多くの問題は解決してしまう

「私が」「考える」ということは前提にしてもよいのだろうか。しかしわたしは、確実性とは何か考えることをやめ、何が確実か考えるようになったのだろうか。何になら甘えられるだろうか求めるようになったのだろうか。此の経験の「今」「此所」のように。

絶対の確実性を「考えない」態度の欠点は、そこから任意の像が可能になることだ

研究するすること。像の任意さの構造。循環公理

私は空想に於いて無限だとする。当然だ。この論理は私と空想と同じものを消去している。ひとつひとつの空想は事実であるということを消去している。事実である空想を否定した全体は無限であるといっている。そんな保証はない。人は有限の人数が有限の時間生きるだけだ

二つの反論を行う。量がとても多いのであたかも無限である。これは正しい。あたかも無限は論理的には有限であり、論理のなかで無限として用いることはできない。近似することもできない。無限として用いた論理は全て誤謬となり、誤謬についての研究が興味あるだけだ

操作として無限である。これも正しい。空想操作はそれを妨げる論理的条件が無いので可能性として論理的に無限である。現実としての空想領域が無限になることはない。そこで現実としてのロマンチックな無限の空想領域を研究することはできない

空想領域には「それ以外の空想もあったかもしれない」という無限を論理的に夢見る有限の否定心情が存在する

類例を集めて次のことがわかる。私は全く自由だ。私の推移は必然だ。私は部分的に自由だ。それぞれの「私」は論理的にしつらえられたものだ。その共通部分は空集合である。より正しくは、それは現実の私に関係させられていることだけが共通し、残りの部分についてのそれぞれの言明であり、それぞれの言明対象の共通部分は空集合であるから、この空集合に対しての言明は任意の述語が成り立つ。本来別の名で呼ばれるべきものたちだ

そこで論理の極に私を想定し、全ての論理を私に集結させ現実の私の像でになう、「私が」「考える」方法は阻止される

ここで問題になるのは無ではない。任意さだ。われわれは絶対の確実性を求めて、完全な任意さを実現してしまう

今われわれが否定したのは、絶対の確実性を求める或る道が全てを否定した無に、或る道を辿ってきたが故に見えるその道の否定としての「自然なイメージ」という操作だ。われわれは同時に、より自暴自棄な「あえてxを仮定する」或いは類似の操作も否定したことになる

絶対の確実性は必ず絶対の否定に導かれる。絶対の否定は完全な任意さに終わり、絶対の確実性は阻止される。だがわれわれは絶対の確実性を求めるという事実は消えない

ではこの命題は絶対に確実だろうか? もちろんこの考察は阻止されるのだ

われわれが求める「絶対の確実性」や、「われわれが絶対の確実性を求める」のが事実である、ということは像領域での直観である

要するにわたしは、像領域で思考する正当さを得たい。しかしそれを未像領域に求める。何故か? 言葉を替えるべきだ。われわれは有効さの概念を得たい。ただしこの世の地獄を引き出さずに

フッサールの全ての離脱と、無からの出口、無意義な任意の言明の山は、「還元」という方法に由来している

われわれが無や永遠極限に逃れるとき、矛盾ではなく、より広域な体系を仮定しているに過ぎない。これはごまかしに見える

全という概念を、欲望だけを捨てればよいのだろう

「像」という概念は究極の実体との対比ではなく、構成という手つきと関連させればよいだろうか。このように十全な体系を作れることは既知なのだ

「この命題以外に、絶対に確実なものは決してなにも無い」というふことを認めるとしたら、厳密に何が起きるだろうか? できるだけ精密に辿りなおしてみる必要がある。この命題をできるだけ擁護すると仮定してみる

「絶対に確実である」ことを「無前提に恒真である」と言い換えよう。「xは無前提に恒真である」というxは存在するだろうか

「無前提に恒真とはこの命題が正しいことで完全に定義され、且つこの命題は正しい」という命題は無前提に恒真である、という命題は成り立つ。もっと言っていい。「Aと前提するならば、Aである」という命題は無前提に恒真である、という命題は成り立つ

「xは無条件に恒真である」というxは、「xは無条件に恒真である」という命題を思考しうるという条件が認められていることを除いては、トートロジーで完全に無意味であるか、無条件前提で完全に任意である

われわれは或る有効性が実験で確かめられ、歴史的に否定されるとういことで充分なようにもおもわれる

この考え自体が実験で確かめられ歴史的に否定される必要はもちろん生じるのだ

ちいさな専門を自らに負荷しているだけなのに、全体を述べるやつら皆を強く憎んでいる

わたしが人の考えを本質的に否定できないのはまだよい。歴史が決めることだからだ。わたしがわたしの他の考えを本質的に否定できないのが、困っていることの一つだ

われわれは、永遠極限を「永遠極限である」という有に安座することを拒否している。永遠極限の治癒効果はやがて失われることを知っているからだ

共同性の概念的な定住に対して、人類は一定して秘密の結社、個人の秘密、秘密の領域を生み出してきた。なにか「重要な決定」は共同性にたいして秘密の領域で行われる。秘密の領域で行われた決定を、重要な決定と呼ぶのである。開かれた共同性において、その場に根拠を求め得ない決定をそう呼ぶのである

逆に決定は全て重要な決定だ。決定と呼ぶものは秘密の決定である。権威というものだ。(領域同士の関係として)開かれた(側にある)領域では、どんな経緯のある決定も、公理としてしかあらわれない

反例がたくさんありそうだ

決定を微分化しなくてよいところ(場面、或いは個別の視点)では、共同性がうまく単一に実効しているところでは、開かれた場所での決定と見做してもよい

国家の法がもっともしてはいけないことは、個人のちいさな欲望を禁止することだ。形式的にだけでもこれを成したいときの政治技巧は、禁止する領域を占める欲望の、逃げ道をなるたけたくさんこしらえてやることだ

ここで課題は、安心して断言するということだけだ

いかにして或る発言に自信を持ち得るか?

これは、全ての発言は価値が高いか低いだけだという概念を入れても効果が無い。では価値が高いとはどういうことか? どんな自信も、なにか無条件な公理か、無根拠な直観か、などの証得ないことがなければ成り立たない

そこで、自信を持つには、言い張るしかない、あるいは公理や直観の根拠を問われれば自信を曖昧にするしかない、ことが証明されてしまう

だがこれは変なことだ。自信を失うことは、我々のこの自信を失うという証明には適用されない。我々は無前提ではなく、論理を前提としその前提の範囲だけで結論を出した。前提が充分だったわけだ

永遠の問題や永遠の課題は存在しない。不安や不満はすなわち問題ではない。ただの事実である。問題や課題は構成し発明すべきものであり、それは発明に失敗しただけである。「問題」という姿勢は、不安や不満から目を逸らすいい逃避になる。それは堕落なのだ

観想は地獄を拒否できないが、原因とはならない。真理を観想するのでなく発見し構成しようとするかんがえは、体験的に人類の地獄をもたらしてきた。だがそれは、人類の進歩をもたらしてきたことも確かである

われわれが何故論理過程を心的に行えるのかは、われわれが物質存在であり、物質に論理過程が素材し、われわれの脳がそういう物質過程を選択して構成されているからだ。そういう簡単な話に過ぎない

科学が数学で書かれる理由は、間違っていればすぐにわかるから、それだけである

われわれは「世界を論じよう」としたとき、すでに像を固定してしまったのだろうか

わたしは「なぜ?」という問いを恐れている。論理の根拠とは要するに責任である。だが責任をとる根拠とはなんだろうか。これは資格の問いである。ほんとうの問いは、究極まで責任を遡ると、追究不能な内奥に閉じ籠ってしまい、任意の言葉しか吐けなくなるからだ。だがほんとうに任意だろうか?

内奥のわたしがなにかを述べたとき、そのことは事実である

私が論じるという像を前提にするならば、私が論じることは外的に規定される、則ちそれ自体は事実であることも前提としてよいようにおもわれる。だがなにかトリックを感じるのだ

問題を発見するほうが困難だ。わたしに燻ぶる不満だけが問題を求め、前に進むのを妨げている。もしかすると全世界に抗する充分な像を構築できていないだけかもしれないが

なぜわたしはこのような基礎的な道に戻ってきたのか。わたしの任意さを克服したかったからだ。それは永遠極限では射程が充分でないところまで、〈現在〉という概念で進んでしまったからかもしれない

よい考えを構成する方法は役に立たない。餌をちらつかせて「それは問題ではない」とひとびとを封殺するプラグマティストに用は無い。また治癒の姿勢も役に立たない。無に対峙することの治療は治療自体を無に帰する。しかし確実な基礎は論理的に存在しえない

思想は如何にして可能かという矛盾した問題に追い詰められている

勿論現に思想は可能なので、この問いは矛盾している。これはわれわれが「思想」と想定しているものが間違っているか、あるいは新たな方途を発見していないかだ

だが新たな無を発見しても仕方がない。われわれは何かを諦めなければならない。それは現に、もう諦められていなければならない

12/03〜12/11

わたしは明らかに違う抽象の階層を混同しているというかもしれない。だがどうしてその階層を区別すべきだとわかるのだろうか。どのような階層かわかれば話はおわりなのだ。まだどうして階層を区別しないべきだとわかるのだろうか。問題がどういう論理構造をもっているか、手がかりも無いのに

デリダサルトルは普遍的なことしか語らない、同じ図式をあてはめてまわるだけで複雑なことに関心がないと言うのは、単にサルトルが理論の射程を間違えすぎてるだけだ。ただこれは不信によってしか修正されえない気がする。しかし信がなけれがなにごとも決定しえない。行っては来る縄目のようなことだ

わたしが任意のことを述べたとき、任意のことを述べたということは自体事実である。任意のAとBを述べたとき、AとBを述べたことをわたしは引き受ける。引き受けること、これは超越でも超越的でも超越論的でもなく、あらたな概念の先験性である。わたしはこれを何と名付けるべきだろうか。

先験性とは似つかないこの概念を、代補やその圏内で名付けるのは芸がないし、わたしの経験(引き受け)では先もない

いまわたしの形而上学では、論理的に確かに述べられることのみを述べようとしているから、その構成物がただ論理的になるのは当然だ

ようやく哲学を研究しなければならないようなところまで来たようである

巨大な体系に憧れてゐる

2015/