c4se記:さっちゃんですよ☆

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Ztirfyへの批判 / 歌謠の価値

1

あんまり怠惰にしてるもんだから、返事が溜まっちまってるよ。このさいだから纏めてやっちまおうよ。
ああ。手書きだとblogに公開できないからって、ついついおっくうにしてしまった。これはまったくわたしの責任だが、そのあいだやすんでいたわけではない。しっかりとかんがへをすすめておいたから、全力でこたえやうとおもふ。ひとつめは「やっちまふ」といふよりは、ただ返事がおくれてしまってゐるだけだが、次とおなじくZtirfyがかかわってゐるから、sykmIkさんにはわるいが優しくやるとおもふな。

おれがいわんとしたのは、近年動画サイトなどで勢力をふるってゐる「歌い手」のものたちは、第二次産業のつくりだした職業的歌い手とはちがふ位相になるといふことだった。しかしそれからかんがへをすすめて、そんなことをいふべきではないことにおもひいたった。もっとちがふことをいふべきだったのだ。またそれは、わたしがすでにかんがへて、またそのかんがへを表明してゐることからみちびけるものだった。またそれだから、こんな返答をゆるしてしまった。わたしがこのsykmIkさんの返答をみてさいしょにおもったのは、それは単に事実に反するといふことだった。それはわたしが家庭をでたここ数年来の認識に反してゐた。しかしかんがへてみれば、それが事実だとみなせる地層もあることがわかった。さふいふかんがへから、おれのかんがへをはっきり区別してをく必要があるとおもふ。
きかせてもらおうか。
ああ。歌い手といふものの基層として、遊女とか門つけ芸とかの歌い手をかんがへることができる。もっとさかのぼって村の祭りで歌ふ巫の者や芸人たちも、いっしょとかんがへることができる。わたしたちの時代ではもうこういふ伝統はほとんど消えてしまったが、文献ではたしかにたどることができる。路上演奏者でも、もうこういふタイプは少なくなってしまった。この基層のタイプは、農業や漁業などの第一次産業を主とした段階に対応させることができる。天然自然とじかに関係した段階を想定すれば、この層を定義できる。その次には劇場や舞台をかまへて、商業として歌い手をやりだした者たちをかんがへられる。この層は資本主義の発達に対応してゐて、いはば第二次産業の段階に位置してゐる。江戸時代から第二次世界大戦の戦前にかけてこの層は形成されていった。わたしたちは今でもテレビなどにその名残りをいくらでもみることができる。自然から高度な物品や概念をつくりだしたのがこの段階だ。つぎにいまのところ最後にくるのは、大衆が大衆を離脱せずに歌い手をやりはじめた層を指摘できる。これはなにもつい最近のことじゃなくて、ロックやフォークソングが輸入されてテクノが流行りはじめたときにははっきりみつけられる。また逆にここ数十年のことにすぎないから、いまでもその以前の層と分化しきったとはいへない。この者たちは、高度に抽象された文化のなかにとびこまなくても、さふいった抽象を拒否して大衆のまま歌い手になれることを発見したのだ。この層を第三次産業を主とした社会に対応させることができる。産業はここで〈第二の自然〉をイメージしはじめたといへる。まったくきれいに峻別できるわけではないし、段階 (層) をかんがへるモチベーションとしては峻別するよりも、遺制のひきずりや混淆・反発を分析できるほうが大事だが、現在までの歌い手はこの三つの段階に分類することができる。
では動画サイトやインターネットで勢力をふるういはば狭義の「歌い手」はこのどこに対応されるのかといへば、情報産業に対応させるのがいい。情報産業はなにも第三次のイメージ産業とはまったくあたらしいものではなく、このイメージの産業の本体だとかんがへることができる。情報産業で第三次の産業のイメージを象徴させることができる。ざっと述べればこんなところだとおもふ。
そんなところでいいとおもふよ。ただ情報産業についての見解は、このblogの昔にすこし書いたことがある (cf. 計算 (判断) を、人間の最も優れた〈能力〉と見做す思想を、情報技術と云ふ http://c4se.hatenablog.com/entry/2013/09/18/003328 ) だけだから、きちんと披瀝しておかうぜ。きみ (井上) のかんがへでは、情報産業とは計算したり判断したりすることを人間の最上の能力だとみなすかんがへ方だ。これはさふつまらない定義ではない。コンピューターに関する産業を情報産業だとする「定義」よりはましなものだとおもってゐる。コンピューターやコンピュータープログラムとはなにかといふことにも応用できるからな。さきにきみ (井上) が述べたことを繰り返せば、情報産業は第三次の産業に含まれる。その中で情報産業を特別にみなす理由は、飲食業や医療などといったものの消費が労働する肉体や精神の再生産といふ、第二次産業の世界をひきずってゐたのに対し、マスメディアからインターネットにいたる情報産業は、はじめて人類に第三次の産業のイメージが独立した世界をみせてくれた。これは貨幣流通の領域でいへば株式の交換が生産企業への投資をこえて独立したみかけをもつやうになったことに対応してゐる。ここではっきりと、人類は〈第二の自然〉を決める道をみつけはじめた。あらたな第一次の産業をつくりはじめたといってもいい。農業や工業もこの人造の自然のなかでかわっていくはずだ。ここからあらたな第二次の産業が分化してくるのはもっと先のことになる。こんなところになるはずだ。
ああ、そんなものでいいとおもふよ。sykmIkさんは第二次産業に対応する社会イメージを自分の感覚として初期第三次産業までそこにふくめてしまってゐるからああいふ判断になるんだ。その段階ではsykmIkさんの見方でもそう誤差はない。だがそれでは高度第三次産業である情報産業に対応した「歌い手」概念はとらえられるはずはないんだ。これは現在のアニメーションや文学の情況にもいへることだよ。

2

おれははじめに「思想的に喧嘩をしたい」などといはれて、こいつはなにを寝ぼけてゐるんだとおもった。こいつは「全てを投げ打ってる」とぬかしながら思想に全霊をかけてもいねえ。仲良く喧嘩なんてできるとおもってやがるんだ。どうしてこんな甘ちゃんなんだ。全霊をかけてやる以上、仲直りもなにもねえ。おまえとのこれまでの仲はなかったものとおもへ。そのあげくに持ち出してきた雑魚みたいな見解をこきおろすまえに、この問題をもうすこしみてみるぜ。

おれがあんまり返事を遅らすものだからZtirfyが電話 (LINE) を掛けてきた。思想を賭けて「喧嘩」をしてゐるから、おれは当然電話 (LINE) にでなかった。それが二度も電話 (LINE) を掛けてくるものだから、おれはTwitterで電話 (LINE) をとらなかったことの註釈をした。返事を遅らせてゐる責任は自分にあるから、おまえ (井上) は黙ってゐるやつだと全面的に非難をうける責がある。だが、思想者として戦っちまってゐる以上、内緒で済ませることはあってはならない。たぶんおれの読者なんてひとりもゐるわけはないだらうが、公開でおっぱじめた以上は公衆はみなこの論争をよむ権利がある。思想者と自注するなら、みずからの思想課程を秘密にすることはゆるされない。とうぜんおれにもひとりだけのかんがへといふものはあるが、ただ個人としてではなく思想者としての発言を内密で済ませたことはいちどもない。公開してふっかけられた「喧嘩」は、すべて公開して批判する義務がある。電話や手紙を寄越すのは葬式のときだけにするんだな。まだある。

なんだこのふぬけた催促は。恋人のまちあわせじゃねえんだ。論争はルール無用の殺し合いでもねえが、紳士淑女のスポーツでもねえんだぜ。「お前の声からも直接返事が聞きたかっただけだよ」といふが、袖の下じゃねえんだ、「喧嘩」してる相手と裏でこそこそ示し合わせて談笑する倫理はもちあわせてゐない。「俺は、お前と正面から向き合いたいんだよ!難しい言葉でごたくを述べられてもわからんからね。」とほざきやがるが、こいつは表現といふことがわかってゐるのかね。こいつがおれをこわがる契機は、おれの側にあるわけがない。おれはおれのした発言や行為ににたいして、どんな批判もうける準備がある。さういふ態度でいつでもゐる。だからこいつが怖がってゐるのはこいつの勝手で、じぶんの発言を怖がってゐたわけだ。それはこいつとのいままでの仲で、なんどか指摘したことがあったかもしれない。おまえの人生などしったことではないが、それを自覚したといふなら結構なことだ。そのわりにこけおどしをおぼえただけじゃないことを祈るぜ。こいつは「ごたく」と述べてゐやがるが、どんな思想や表現も修錬無しに読めるわけはない。いままでの仲で述べてきたおれの思想がわからねえといひたいのだらうが、じぶんの怠慢を棚にあげるんじゃないぜ。どんな者にもわかるほど平易にいへないのはわたしの修錬が足りない証拠だし、その責は全面的にうけるさ。だがおれの思想の底がわからないと甘えてしなだれかかっても、それはZtirfyの修錬不足以外に帰するものではないさ。

そのあともこれだ。以前にもこいつはsykmIkさんにおなじやうな迷惑をかけてゐたおぼえがあるぜ。sykmIkさんはうまくいなしてゐたが、きちんと残ってる。

こいつ (Ztirfy) はなにをそんなに媚びてゐるんだ。これが「最早権威に擦り寄るつもりも無い!俺は、俺自身の音楽や、世界を作ってるんだ!安寧なんて、生易しい領域に住んでいるわけねぇだろ!!!闘争なんだ!わかるか?」と言ったやつのやることか。こいつがリナ・フィードさんやsykmIkさんとどんな関係をもとうととうぜん自由だが、おれを権威とみなすところから離れたらどうだ。もちろん今後、反権威に移動させたとしてもおなじことさ。おれを権威とみたてたり反権威として卑下するくらいなら、ちゃんと独自でかんがへることをきたへるといいや。
こういふことをいってゐると、おまえのTwitterでのキャラ立てはどうなんだといはれさうだから、註釈しておく。おれのTwitterでのキャラ立てについては、あれはまずは半分だ、といふことだ。Twilogに漏らさず記録を残してゐるから自由に参照してくれればいいが、おれはTwitterをはじめたときから現在のキャラ立てをやってゐたわけではなかった。そもそもTwitterをはじめたのは平沢進の発言をみるためだった。それ以前ではおれはblogでTwitterみたいなことをやってゐた。そのあと、Twitter社のすぐれたinterfaceの気楽さで、おれはTwitterでも発言するやうになった。おれは人付き合いが苦手なのを自覚してゐた。そこでおれなりに、なんとか人付き合いできる方法がないか模索してきた。そこはZtirfyとおなじだ。おれのやり方がせいさん (@sei_miu, @sei_mel, @ask2501) の影響をうけてることは否定しないさ。せいさんをみた時、こういふ文体の方法があるのかとおもった。おれとしては違和感をあまり感じないで済むいちばんの方法だった。だから真似できるところはさせていただいた。iconをアニメーションの少女の画像にして頻繁に変へるのも、.。oO()を多用するのも、顔文字や絵文字をおおくつかふのも、そこに由来してゐる。せいさんにはいろいろと茶化された。iconを少女の画像にするのは、おれの女性に生まれたかったといふ願望にあってゐる。.。oO()も顔文字も、おれの女性性に根ざしてゐる。せいさんはそんなつもりでつかってゐなかっただらうが、おれはさうしてみせた。おれは、じぶんが女性に生まれたかったといふ願望も、そうは生まれなかったといふこともごまかしたことはない。だからZtirfyの性欲を言葉の陽面にだすやり方についても、なにもいふつもりはない。陰もないやうに明るく気張ってみせるのもいい。ただじぶんの背丈をこえなければとおもふだけだ。だがおれは、自分の発言をひらいていく、かんがへを開放していくといふ課程をおこたったことはない。おれはいつも、わざわざおれをfollowしてゐる読者全員にむけて発言してゐる。どんな個人にreplyを飛ばしたときも、follower全員である読者が主役だといふ視点を欠かしたことはない。それは思想者と自注してゐるおれの役目だとおもってゐる。こいつ (Ztirfy) のやうに、全思想を賭けて「喧嘩」してゐるおれへの擦り寄りをダシしにてリナ・フィードさんに擦り寄る醜態をさらしたりはしないさ。
きみ (井上) が怒るのももっともだ。だがその辺にしておいて、こいつが主題にしたい歌の価値についてやってやらうや。「社会的に歌が慰安と言われようが、社会的な価値が無いと言われようが、それで救われている奴らが何人居る?歌は俺の支えだ!命そのものだ! 俺の歌や、他の歌に支えられ、社会的な価値を生み出している奴らの事は眼中に無いのか?」といってゐる。「ついでに言えば、最早権威に擦り寄るつもりも無い!俺は、俺自身の音楽や、世界を作ってるんだ!安寧なんて、生易しい領域に住んでいるわけねぇだろ!!!闘争なんだ!わかるか? その為に、俺は全てを投げ打ってるんだよ!!社会的な幸せもな!」ともいってゐる。きみ (井上) はどうおもふ。
おれはすこし前まで、文学や音楽に社会的な価値なんてものはない、さういふものはあまりかんがへないほうがいいといってきた。もちろんこれはおれの独自によるものではなくて、吉本隆明からひっぱってきた見解だ。ひっぱってくるやり方だけが独自のものだった。とくに音楽はじぶんがさかんに実作してゐることもあって、かなりつよいいひ方をしてゐたとおもふ。うまく実作のところまでかんがへを延ばすことができずに、すこし無理に背伸びをしてゐるところがあった。最近はだんだんとかんがへがとどくやうになってきて、これとはすこしちがふことをかんがへてゐる。だが背伸びしてきたぶんのツケは払ふべきだといふ感じだ。こいつの「俺は己の覚悟を決めるのに10年レベルかかったからね。」といふ言の十年のくだりも、おれが吉本隆明からひっぱってきたことの孫引きで、要するにおれがいいかげんに背伸びしてやってきたことのツケなんだ。だからその点については、ちょっとおれ自身をあらんかぎりとっちめてやったほうがいい。だがそれでも、こいつのやうなおもねりと空虚にささえられた考へ違いをしてゐたわけではねえや。どんなに背伸びしてても体験的な核はかならずあったし、それを普遍的な言葉にまでもっていくときの、どのくらい背伸びをしてゐるかといふ測量は厳密にやってきた。また背伸びをもたらすところの必然性も手放さずにもってきたし、その矛盾を解消する努力を、まさに背伸びをしてゐるそのときですらおこたったことはないさ。
文学や音楽の価値について、おれのいまのかんがへを述べてみる。ここにひとつのリンゴがあれば、そのリンゴの価値は、その木を自然の中からさがしだしてもぎ取ってもってくる労働と等置することができる。木からリンゴをもぎ取ってここまで持ってくる労働で消費される身体を、そのリンゴの価値だとみることができる。もうひとつある。リンゴを食べる (消費する) ことで生産される自分の身体や精神を、リンゴひとつと等置することができる。これはリンゴの有用さによる使用価値をいってゐることになる。もうすこし見通しのわるい例をみてみる。ここにひとつのどこにでもありさうな石ころがある。この石ころの労働価値は、まさにその唯一の石ころ自体を自然の中からさがしだしてくる価値をいみしない。どこにでもある他の石をさがしてくればいい。ここでは人間の、「等置する」といふ抽象力をみてゐることになる。その石ころは、それをもってゐる人間におおきな有用さをもたらさないため、おなじくらいの大きさのほかの石と区別されない。等価だとみなされてゐる。この有用さは、人間身体のもつ志向性 (欲望) の大きさや方向に対応してゐる。みずからの身体や精神の欲望を微細化すれば、石ころの価値を微細化できる。石ころの生産価値 (身体・精神の消費価値・欲望) と、石ころの消費価値 (身体・精神の生産価値・欲望) を等置する意識が、こっちの石ころとあっちの石ころを等価だとみなす判断をささえてゐる。ここでわたしたちは交換価値の原初をみてゐるのだが、交換価値の条件をみたすにはもうひとつの段階がなければならない。
いまある一定量の鉄塊をリンゴ一個と交換することにする。わたしは鉄塊の使用価値を放棄してリンゴの使用価値を得る。だが鉄塊の有用さとリンゴの有用さとは、そのままでは等置されないはずだ。わたしは鉄塊を鋳造してナイフをえることができる、針をえることができる、独楽をえることができる、それによってわたしの娯楽や明日の身体の糧をえることができる。またわたしはリンゴを食べて身体を生産することができる。ここで鉄塊やリンゴの使用価値 (消費価値) は、方向や経路は異なるが、それらを消費することでえられる身体・精神の量を推察することで計られる。いひかへれば、えられる身体エネルギーの期待値を時間にそって積分することで計算される。また鉄塊やリンゴの生産価値は、鉄塊を掘りだしたりリンゴをもぎ取ってくることで減る身体エネルギーの期待値を積分することで決められる。ここでもし、わたしがひとりだけで鉄塊とリンゴを等置するのならば、じっさいに生産価値や消費価値を測ってみればよい。だがこの場面で、わたしたちはすでに社会的な交換にであってゐるのだ。わたしは特別に不器用で、鉄塊を掘りだすのにとくべつ時間がかかるかもしれない。またわたしはリンゴの生態やその場の地理をしりつくしてゐて、リンゴなど造作もなくとってこれるかもしれない。あるいはわたしは鉄塊の使用方法をしらなかったり、リンゴはみるのも嫌いでとても食べられたものではないかもしれない。だがこういった個人的な生産価値や使用価値のちがいは、社会的な交換の場面では間接的ないみしかもたない。鉄塊やリンゴの交換価値は、ひとびとの社会的な認識力に依存する。
では文学や歌謠の価値はどうかんがへればよいのか。いま「妹や羽子板市に来て泣くや」 (角川春樹「信長の首」) といふ歌をかんがへる。これを「妹 / や / 羽子板市 / に / 来て / 泣く / や」と分析してみれば、「妹」といふ語の価値は作者の妹を指す意味のはたらきや、「妹」といふ語が喚起するイメージと等置される。また「妹や」は「妹よ」といっても意味としてはおなじだが、歌の価値はまったくかわってしまふ、そのちがいからみえる喚起力が「や」といふ語の価値といへる。わたしはソシュール (Ferdinand de Saussure) のやうにシニフィアン signifiant とシニフィエ signifié といふことをいひたいのではない。また言語体系 langue と使用場面 parole のちがいや、連辞 syntax と系合 paradigm のくみあわせにも関心がない。「妹や」の価値は、それを表現する作者の自意識と、了解する読者の自意識に依ってゐる。いひかへれば「妹よ」や「年下のきょうだいや」といはずに「妹や」と表現した作者の内的な意識力の行使と、「妹や」ときいてじぶんの妹との仲のわるさや育ってきた家族の記憶をおもひうかべて慰められる読者の意識力が、「妹や」の使用価値にあたる。そして社会的な人間存在にたいして「妹や」といふ表現が対自的に存在する仕方が、この語句の交換価値である。いはば「妹や」といふ語句が意識や無意識の内部から表現されたときの、意識自身への反作用にあたってゐる。
Ztirfyは、じぶんの歌唱をきいて楽しんだり気を紛らわしたりしたものの行う労働のおおきさが、歌の価値だといひたいわけだ。もうすこしきちんといへば、Ztirfyの歌唱をきくことで生産された精神を人類にそって積分した総量が、Ztirfyの歌の価値だといってゐることになる。だがそんな積分はできるわけがないんだ。こいつがそんなたいした歌唱をおこなってゐるのかねとからかいたい気持ちをおいても、こいつの歌唱を録音したレコード百枚の価値は、そのレコードを買った百人のうけた感銘と等置できるといへないこともない。だがそれはおまえの歌唱や音楽の価値ではないや。あるZtirfyの歌唱の価値は、その歌唱表現において行使したZtirfyの内心の行使力と、こいつの歌をきいたリスナーの内的な感銘の喚起力に依ってゐる。そして人間の意識領域は、意識領域についての意識じたいをじぶんの意識として含むといふ矛盾のために、いひかへれば、身体の各作用の時間性が障害にであい、障害が矛盾として存在したところの補償作用として意識じたいが存在するために、文学や歌謠の価値は商品の社会的な価値と等置することができない。うれる歌唱がうれただけ価値があるわけでも、うれない歌唱に価値がすくないわけでもない。表現としての歌唱の価値は、商品としての価値概念へたどりつくまでにおおくの遠い層をとおらなくてはならない。その論理をかんがへぬく努力をせず、すぐに社会的な安寧へたどりつこうとすると、こいつ (Ztirfy) のやうに生易しい権威に媚びることになる。こいつには、おれが真理しかないといふやうには、じぶんには歌しかないといふ覚悟はねえんだ。生易しい権威に擦り寄る道具にすぎねえのさ。日々生活し疲れ慰められ「社会的な価値を生み出している」大衆存在が眼中に無いんだ。こんな雑魚みたいな見解で「喧嘩」をうられても、まともにうけるほどおれはお人好しじゃないぜ。歌唱の修錬をたっぷり積んで出直すがいいや。
そんなところでいいとおもふよ。ひとまずはこんなところにしておかうか。

井上幸亨郎 2014-01-10 - 2014-01-19