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論理に就いての試論

井上ネム
論理に就いての試論


 わたしたちが或る議論をしているとき、ふと奇妙な念に駆られる事がある。われわれの言わんとする事は果たして同じではないのか。この議論は一体何を争点としているのか。このような疑問に突き当たると、その成否と確かめる術も見付からずに、相手と話しながらも自らの立論もあやふやとなって、結局は適当に茶化つつ話しを終わらせてしまう。或る論の立地を測定する術ははたしてないものか、ということを考えると、つまり思考の論理とはなにかということに行き着く。当然これは公理的な記号論理学ではなく、観念の文体はどういった経路で思考へ入ってくるのかといったほどのことだ。
 一般の命題は次の規則を満たす。x, y, zは命題を、∧はand、∨はorを意味する。


x∧x = x∨x = x
x∧y = y∧x, x∨y = y∨x
(x∧y)∧z = x∧(y∧z), (x∨y)∨z = x∨(y∨z)
(x∧y)∨x = x, (x∨y)∧x = x
(x∨y)∧z = (x∧z)∨(y∧z), (x∧y)∨z = (x∨z)∧(y∨z)


 こうして x∧¬x = 0, x∨¬x = 1 へ帰着させられれば、結論がでたことになる。¬はnotである。
 初めの項目は、「x且つx」と、「x又はx」は、共にxと同値であるということだ。次は、and, orは命題の順序に依らないということ。三つ目は意味としては前項とだいたい同じ(ただし異なる事を述べている)で、andとorは計算の順序に依らない。四項目は、「x且つy」はxの部分を成し、また「x又はy」はxを完全な部分とする、という意味を示す。最後は、集合演算で置き換えると理解し易い。


[図略]


 これは全てを機械のスイッチによって表す論理のモデルだ。思考の科学的なパターンを抽出してきたものである。
 これに対して、わたしたちが今言おうとしている〈論理〉はもっと違う。上のパターンは、人が事実についてそのまま述べようとしたときに沿う経路である。ここでいいたい〈詩の論理〉は事実から離れるとはいえ、この事実の層から剥離してくることは確からしくおもわれる。

椿散る道に想いは戻りゆく(麻井シキ「真昼の幽霊」「風景論Ⅱ」より)

 この詩は特に意味はなく、ただ「椿が散る道に、私の想いは引き戻されることだ」という情景だけが描かれている。それを五・七・五に乗せて固定しただけだ。その意味で、この詩は〈事実〉を描いた詩(和歌)だといえる。だがこれだけでも、言葉は物語を想像させる。「椿散る道」はいったい何の思い出なのだろうか。なぜ「椿咲く」ではなく「椿散る」としたのだろうか。もしシキが、実際はただ音数律にのせて粋な風景を述べただけだとしても、依然として作品はある以上これらのことは問題となるはずである。だから、詩では〈事実〉はかならず観念の連結を伴ってあらわれる。「椿/散る/道/に/想い/は/戻りゆく」という七語の文法構造を支える論理が必要なのだ――それがなければ語はただ任意の言葉のカオスへ落ち込んでいってしまう。

夕星の輝きそめし外にたちて別れの言葉短く言ひぬ(吉本政枝)
つながった私のぬめった躰の奥で堕胎機械が血を流してる(麻井シキ「幻想機械」「「私」の表出」より)

 この程度の構成を持つと、言葉は〈概念〉とでもいったものを練り始める。五・七・五・七・七に言葉を乗せて、或る価値をもたらそうとすれば、一回は〈屈折〉を経なければ困難である。上記はどちらも上の句と下の句との変わり目で〈転換〉を経ている。「椿散る――」では作品の外にあった物語がここでは中だけで充分な強度を持ち始めている。

〈サクラサク〉
サクラガサイテ 紅クナル
ハナノ下ニハ  キミ立ツヤ
ムネニイダクハ 誰ガウデカ
――トシヅカニ タタヅムヤ

ウスモモイロノ キリタチテ
ソラノ彼方ニ  ユメ遠ク
キミノ零スハ  タレノ血カ
トウテムナシク 眼ハイヅコ

オチル地面ハ  クログロト
ウズモレユクハ ソノ色カ
タダソノムネニ ヤドルノハ

ホンノ微カナ温カサダケ
(麻井シキ「軌跡の断章――軌跡」より)

 ここまで構成が可能になると、詩は内に〈世界〉を結び始める。言葉は、他の詩や情景に頼る事なしにただ独自にイメージを構築するようになる。もはや次は詩の内に物語に入口と出口を取り込むだけだ。これを、〈事実〉〈屈折〉〈内閉〉〈膨張〉という構成の系列へならべることができる。そしてこの度合いは、可能性としては単純に言葉の数による。そこに作者の資質が掛け算されるだけだ。
 まず言葉は〈事実〉を描く。このとき喩として詩はすでに観念の系列を引き連れている。次に言葉は〈屈折〉により観念の列を内に引き入れる。ただしこの観念の列は詩の外へ障壁なく続いていっている。そこから〈内閉〉により観念は詩の内部で完結するようになる。ただしこの世界の入口や出口はまだ外へ預けられている。〈膨張〉の段階になると、物語として完結して、さらに重層に構築が進んでゆく。これが〈論理〉だといえる理由は、言葉の事実を結ぶ文体とでもいうような、構成の作用のことを、つまり事実から事実への関数のことを指しているからだ。命題と命題とを繋ぐ作用が記号論理に於ける論理だから、このアナロジーははずれていない。違うことは、命題はただ関係によって繋がれるが、詩の事実は喩によってつながれている。もちろん喩も関係ではあるが、記号論理の関係は言葉の喩から抽象作用によって、散文作用だけをとりだしたものだ。小説などの散文は言葉が捨てていない喩の構成力から支えられているが、この構成力を極限まで抜き、しかしまだ文の繋がりをつけようとすると、そこには最少の論理が残るはずだ。この散文論理は複雑に組み上げていけば、やがて喩の世界を示すことができるに違いないが、それ自体が詩の力を獲得して物語を構成してゆくことは、ありえない。〈喩の論理〉か〈散文論理〉かはただに近道か遠回りかといった違いではない。〈喩の論理〉は散文の縮約ではなく、物語を引き連れつつそこへ収束してゆく、構成の単位だからだ。
 思想の論理でも詩とまったく同じことがいえる。思想がある完結した様相を見せているとき、そこには或る観念の列が含まれている。この列は、自然には任意の関係様相をしめしているが、思想主体の作用により一つの必然の系列を構成する。観念が堆積するごとに論理もまた重層することになる。そして二つの思想がぶつかるとき、それはこの論理がぶつかっているのである。任意に取替えのきく観念が争うのではない。〈必然〉の論理が観念を呼び寄せて、思想を構成している。だから論理、文体によって思想はぶつかることになる。
 そして結論とはなにか、がもうひとつの問いだ。結論のなかに論理があるわけでわなく、事実を集積する論理の表面に、テーゼとして結論が出てくる。だから、論理の測度(オーダー)に応じて、結論の任意さはうごく。精度が低ければそれに比例して結論は任意につけうる。逆に詳細さはそれだけ結論を必然のものとする。密度の低い気体の分子はどこへでも恣意に動くが、緻密な固体の分子は結晶構造に嵌まって自然に伸張してゆく、というイメージである。言葉は語の変換の中へ散逸してゆく――思想主体は自らの論理によってそれに無限の硬度をもたせようというのはいいすぎだろうか。言葉の、固体から気体、虚無へと自由な喩へ逃げてゆく動きを殺さずに、論理の多様体を結晶させられるだろうか。結論を成すその表面構造を探査するこころみが、思考を「書く」という行為だろう。
 書かれた文章が接平面となり、それの積分として思考が姿を浮かばせる……。思想が自分をこえて自存しはじめたら、それが論争を終わらせる目処である。如何なるところにも終焉は来る。なぜなら思想は生活ではなく、物語なのだから。


20081023


意味不明な事に、何故か尺が余ったので、急いで三ページ分でっちあげることになった。ほんとうにでっちあげちまった……あんがい書けるものなのだな、と思った次第である。


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