私は神道は明らかに一つのものではないと觀察してゐる。鹿島と八幡と天滿宮が皆同じ信仰だとは思へない。更に古代と中世と近世と現代の神道が同じ信仰とは思へない。今の我々が「神道」と呼ぶのは戰國末から江戸期の近世に儒敎を使って理論化された信仰だ。また「神道」と呼ぶと、自體が信仰の對象である理論を先に見て、民俗を見逃しがちでもある。神道と民俗を神の二つの類型とするこの書の題は、私のかういった關心に合った。
著者は民俗を、地域に複數の異なる民俗が同時に在って影響し合ふものと捉へてゐる。二つの民俗の異なる樣は、ただ地域に分布するモザイクなのではなく、二つの類型にまで高めて記述される。その內で最もよく使ふ類型が水田稻作農耕類型と燒畑・畑作農耕類型で、それぞれの象徵として正月に白い餠を⻝ふ民俗と、三ヶ日に餠に物を混ぜて白い餠を忌避する或いは全く餠を使はない民俗とが擧げられる。また民俗學でよく話題にされる、定住民と山民との對も、この類型に寄せて推論される。異なる生活が倂存する、この生活から類型を立てられる、生活が自身を類型として認識した時に見えるのが民俗である、といふ像を著者は大切にした。
