資本制にたいするかんがへや仮名遣ひにかんすることなどは、ansuz以来すすめてゐる「詩注としての詩」に含めてしまってゐるが、そこに書ききれないことを、だまって溜めておかずに書くべきかとおもふ。
体験はどんな思想をもうまないし、「大きくなれば」わかるといったり「きみも子供ができれば」わかるといったたぐいの妄想は、わたしはおまへのまちがひならわかる、おまへは自分の思想の無を体験のほうへ挿入して逃げ、現在と理想とのへだたりも理解せず、単純さの神を柔軟につくりあげ、歴史に抗することもしない。理想をただただ捨ててゐるだけだ。「体験すればわかる」といった言ひまわしには、こういへばじゅうぶんだといふことになる。またもうひとつには、原則もない思想を批判するのに、あいてに骨折って深入りしてやる必要もないといふこともいへる。わたしはアジア戦争を体験したわけでもないし、まただれがなんと言ったかも深くしらべたわけでもないが、アジア戦争の慰安婦のことに答へるのに、どんな体験も必要とはおもはれない。慰安婦の人が謝罪しろといってくるならば、日本国は謝罪すべきに決まってゐるのだ。朝日新聞が慰安婦が強制であったといふうそっぱちの証言を捏造して、また嘘であることがとっくに判明してゐるのに訂正も謝罪もせず嘘にもとづいて人々を非難しつづけたといふことがいはれてゐる。また当の朝日新聞自身によって、今ではこのとおりだったと大筋では認められてゐる。慰安婦の問題がわざわざ嘘をでっちあげるほどのことかね。朝日新聞には、現在を批判するほどのちからはどこにも残ってゐないから、架空の証言をこねくりまはして権力に平身低頭しながらみずからをなぐさめてゐる。現在をひとつも批判しちゃいねえんだ。
強制かだうかなんて問題ではないんだ。戦争をして民衆を兵士や娼婦として召集や徴用したりするのは国家の犯罪だといはなければならないのだ。人類は定住初期の血縁共同體から国家へまで離脱してくるときに、必要や錯覚からさまざまな擬制をつくりだしてきた。この擬制はまた必要や錯覚からすぐに消し去ることはできないが、それを明確に司法と金銭の税にまで極限してきたのは、人類の偉大な進歩といはなければならない。日本国家が韓国や朝鮮の国家に謝罪をし、すでにことは済んでゐるといふ言ひも聞く。この謝罪が、韓国や朝鮮の国民的にうけいれられたものならまだ意義があるが、わたしの感じではこれは政治的に内密なものにすぎない。韓国の指導者層があいかわらずとやかくいふのは、てめえらの前任者のやったことくらい自分で始末をつけろといひたくなるが、慰安婦の人々が個別に日本政府を責めるのであれば、日本政府はこれにぜったいにこたへなければならない。かれらがまったく虚偽をもうしてゐるのでないかぎり、国家が個人に現実的なちからを及ぼしたことについて、その個人が個別に国家を責めることがあれば、国家はぜったいにそれにこたへなければならない。原発事故後の福島の瓦礫にしてもさうだぜ。あれをほかへもっていけるわけねえじゃねえか。福島の瓦礫は放射能の問題でほかへもちだせない、福島が放射線で汚染されてしまったのはまったく国家の責任で、どうしやうもなくわれらで責任をとるしかない、福島のここに処理するから、もうしわけないが呑んでくれ、重ね重ね追はせてしまってなんとも言い訳もできないが、すまないがさうしてもらうしかない、その補填はなんとでもすると言ふ度量もなにもねえんだ。わたしは国家への訴追にはすべて言はれたとおりにしろとはまったく言はない。しかし納得してもらふまで対応しつづけなければならないんだ。それをしなければ、近代国家にしてからつみあげてきたすべての進歩は無に帰することになる。