シキはとんでもないところを通り過ぎやうとしてゐる。わたしの知るかぎり彼女の前にはだれもゐない。必然の足取りで麻井シキは進んでゐる。
わたしは偶然に、シキの詩業をほぼはじめから見てきた。ここ数年の麻井シキはみずからの詩を否定してきた。はじめて書いたといふ詩で彼女の技法はすでに完全なすがたを見せてゐる。だからこれは、彼女の詩業をすべて否定することだった。
〈詩の終わり〉 歌が終わって 静寂が訪れた 詠い終わって 静寂が訪れた 静寂は静かだ 静寂は寂しい 然う、長鳴鳥が鳴き止んだ 歌が終わって 清涼が振り籠める 詠い終わって 清涼が振り籠める 清涼は清らか 清涼は涼しい 然う、常世の長鳴鳥が鳴き止んだ 沈黙―― 闇に灯が点って 青白い火に 黄色い閃光が瞬いて 空気を掻き回して車座に回り 衝突し合い 互いに間合いを詰め乍ら螺旋を描き 二重にぶれて 軈て一つに縮まったかと聞こえれば 弾き飛ばされるのかな? 岩は喋らない其の前で何やら話し声が見え始めて 誰かが踊りを舞うと 夜が明けて 陽が照るとでも思ってるのかな? 冬になって 寒さが柔らかく湧き上がると 光が付いて 矢がとても鋭く入り込む うねって 捩じれて 頬に涙が零れる――泣いて しゃくり上げて だから――雪が降り籠める 雨が降り注ぐ 頓ら頓ら濡れる 葉が 或は 歯が 或は 端が 喉から唇から乾いて仕舞って…裂けていって… もう、駄目 2005-11-20 麻井シキ 「シキ詩集1 初めの第一歩!」
これの以前にもこっそりといくつか詩を書いてゐたらしいから、いくぶんか練習済みだったのかもしれない。言葉の意味にあらはせなかった部分を言葉の空間として組み上げる技法は近代詩にときおり見られるものだが、それを様式といへるまでにしたのは、辛うじて宮澤賢治がゐるくらいだとおもふ。
詩集3「幻想機械」のころにはこの様式は完成をむかへ衰微をはじめた。空間的な配置が詩のイメージをつくり、言葉は生命を失っていった。初期のシキの詩が、紙の平面に詩形を構築することで、言葉の意味やイメージを紙の平面の前後に拡げてつくられてゐたのに対し、このころの作品は、言葉の意味やイメージは断ち切られ、それが詩形の空間的な配置によってからうじて繋がれてゐる。シキはこの詩形を、様式とすることでこの時期を生き延びてゐる。この敏感な詩人は、自分のその立場に気づいてゐたやうだ。あたらしい語彙やイメージを探求したり、様式を否定する意味を言葉に、この詩形の様式に載せて書く試みがこの後の時期に成されてゐる。衰微した自分と世界との関係を追い詰めるやうな書き方をつづけ、やがて詩を書かなくなった。
〈躓き〉 私は探しているのです 人が言葉を紡ぐ時、何か伝えたい事があって、 それを言葉にする筈です 「人が言葉を話すのよ」 「思いが言葉を伝えるのよ」 でも 私は自分が嫌いだった (私は間違っているの) (私は悲劇のヒロインになりたいだけ) 何を信じればいいの? みんなを見渡しても 仲間を見付けられなかった 書物にすら 参考を見出せない 何を信じればいいの? ――結局 私は自分を信じれなかった だから他人 にも頼れなかった 《独り》にすら成れなかったのです。 私は「正しさ」を探す旅に出た 其れが無ければ 生きていけない事は解っていた それで私を殺さなければ 「私は正しくない」……そんな分かり切った事。 だから 言葉が正しいのだと 言葉の恣意が其の必然として 話す者や 聞く者を 形づくるのだと 「想いなんていらない」 「私はただの鏡なだけ」 そんな 事が慰めなのですよ 今でも 無。 思想どころじゃなく 修辞すら大切でなくなって 世界は無から始まる 2009-08-15 麻井シキ 「孤独詩篇」
〈見よ足失の二重〉 忘れたのか 詩を失った理由を ――此う云う書き出しは テクニック である。 詩を書けば則ち其れは〈詩〉ではなくなる 書く前に 私には〈詩〉が有った「筈」である 話せぬものだ 単に言えば、話せぬのは〈詩〉をあたしの意 識が捉えていないからだ 表出、或いは固有の表現行 為は其の残差を失ってゆく過程である 表れたのは意 識ではない 鏡を媒介して反転した残差が、 私の詩の幼年は失敗していた が 言葉の切断を 分節や単語から 方向や量に拡張し拒絶を重ね着する テクニック を固定したことで 幼年は拡大の場所を得たかにおもえた 此れは無 数の詩人の手に依り 詩行や 連や韻律 修辞の様式化に於いて 部分に成律していた事である 更に重ね着した丈だ テクニック に依って接路を得たかに見えた幼年は 孤必した思考に依らない為反転 して己れを失いゆき 様式 丈が残る 様式とは失いゆきに通る支配と云うことは知らなかったのだ 知り得るか? 時 此の様に思考するのは容易である 此 んなものが詩であるものか 様式しか知らぬ丈だ 拡 すれば好いのか? 解せぬ生命を得たところで仕方が有らぬ 死ぬのでも足りぬ丈だから 理を沿わせるのか 山河とはなにか 2012-12-30 麻井シキ 囁き(うたかた)♪:[詩] 見よ足失の二重
最近のシキの詩は、論理的な言葉がそのまま詩の伝統に依らずに詩として成り立つやうに書かれてゐる。生来の資質頼みだった言葉のイメージは、論理をそのまま詩情とみなす視点に、足場を寄り添はせるやうに存在してゐる。まだ足場をさがしてゐるところだとおもふ。彼女の詩の未来が、日本語の詩の未来に繋がってゆけば、初期からのシキのファンとしては嬉しいことだ。
〈詩は既知のことを言うのだとおもわれている〉 詩は既知のことを言うのだとおもわれている 詩は誰もが知っていてそれを忘れているだけのことを書くのだとおもわれている わたしはそんな通念を拒絶しようとおもう 詩は新しい視点を示すのだとおもわれている 詩は世界にあるのだがすこし見方がちがうだけで見えてこないものを書いてくれるのだと おもわれている わたしはそんな共通性を拒絶しようとおもう 詩は現実の隱喩だとおもわれている 詩はすなおに言うとはばかられる現実を隠して書くのだとおもわれている だが詩は言葉の世界なのだ 言葉は現実の関数ではありえても現実の写像ではない そこでわたしは人間精神がまだ実現していない孤独の直接性への先端としてのみ詩をゆる そうとおもう 世界からの拒絶という妄想だけがわたしを癒してくれるような孤独を拒絶する思考の先端 としてのみ詩をゆるそうとおもう 2015-03-14 麻井シキ 囁き(うたかた)♪:[詩] 詩は既知のことを言うのだとおもわれている
cf. 囁き(うたかた)♪:詩 http://blog.livedoor.jp/lotus_gate/archives/cat_51591.html