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四年前に東北地方の東沿岸におおきな震災と津波の災害がおそった。現在の下がり調子のわが日本にはこれだけでもおおきなことだったが、福島県沿岸の原子力発電所が巨大な事故をおこしたことが、おもい問題だとかんがへられた。このことについては、おもい問題だとされてゐるのは原子力発電 (原発) 技術じたいの問題ではまったくなく、その事故の原因も事故の問題がこれだけおもいものになった理由も、ふるくからある言葉の問題であって、これを解かなければ問題をみとおすことはできないと主張してきた。
cf. 原発については賛成でも反対でもないし http://c4se.hatenablog.com/entry/2012/07/09/225244
ひとつだけ附け加へられさうなので、いってみる。原発技術にたいしてどのやうな態度がありうるのか? かたほうには反原発の態度があり、もうかたほうには再稼働の態度がある。反原発の態度は原発技術じたいが御しきれぬ危険なものであるから人類はこれから敗走すべきと説く。再稼働の態度は原発は経済を利するし、反原発派のいふ危険なるものは虚言であるから、現状の原発はとりあへずそのまま稼働させるべきと説く。ではわたしの態度はどこにあるのか? おまえ (井上) は態度をはっきり述べてゐないがおまえ (井上) がえらく入れ込んでゐる吉本隆明ははっきり態度を述べてゐる。おまえ (井上) の態度もおなじでなければならないとあなたは言ふか? では吉本隆明の態度はどこにあるのか? 反原発を否定してゐるからには再稼働派であらうか? 絶対の防御をつくりあげ原発技術とともに人類はすすんでゆかなければならないと説く彼は再稼働派であらうか?
反原発も再稼働も、原発技術にたいする態度としてはありえないといふのがわたしの答へである。
反原発の態度も再稼働の態度も原発に対する態度はひとしく一致してゐる。かれらにとって原発とは経済と政治のものである。この資本制の世界では経済は政治の言葉になる。そこでかれらにとって原発とは政治のものである。反原発の者にとって原発とは恐怖である。放射線の力は人類の身体にとっていまだ自在にならない外の力である。人類の科學技術はいろいろのものをなんとか制御におさめてきたが、放射線はいまだにほとんど防ぐことができない。得體のしれなさは思考にストップを掛け、恐怖の言葉で政治を語りだす。その標語は「自然さ」「必然さ」である。この「自然さ」「必然さ」はフランス革命に起きたものと同じものだ。フランス革命は「貧しい」といふ身体欲求の自然さ、死の恐怖といふ自然さにより、そしてそれに従はねばならぬといふ、みずからの意志を捨てて民衆の貧しさに従はねばならぬといふ必然さから暴政に転落した。反原発の危険と危機の態度は、正しさをゆいいつ支へるみずからの意志を捨てることになる。いっぽう再稼働の者にとって原発とは利益と恐怖である。原発は格安ではないが現実的な価格で動作するし、資源も得なければならないが石油に頼ること無く、それほど安全でないわけもない。なにより原発は大電力を安定して発生させることができる。現代の規格的エネルギーである電力を! しかし再稼働派が恐れてゐるのはこれらをうしなふことではない。再稼働の態度にとって反原発は国家の廢絶である。
〈原発〉とはなんであるか?
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- 作者: 吉本隆明
- 出版社/メーカー: 論創社
- 発売日: 2014/12
- メディア: 単行本
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かういふ文章を書かうとしてゐたのだが、その必要がなくなってしまった。わたしは東北地方の災害に関する吉本隆明のかんがへを知りたいとおもひ、すこし文章を集めてゐた時期があった。あまりまじめにやらずに、ほとんどのものを見逃すていたらくだったが、それでも彼男のかんがへを充分に知れるほどには読んだつもりでゐた。それから数年がたって、補足するべきところもでてきたやうにおもへてゐたが、その必要はなかったことがわかる。
反原発派は無知蒙昧を組織し恐怖をあつめることでなりたってゐる。かういう煽動はきちんとした論理によって破壊しなくちゃいけない。再稼働派は原発をただ経済の問題としかかんがへない。原発の技術と運用体制をすべて明らかにして、民衆の不安を払拭するやう努めなければならないのに、すべての安全対策をあいまいにしたまま経済上の理由だけで原発を再稼働させやうとしてゐる。国家や企業などの共同性が、あやういところはすべて隠してあいまいに済ませやうとするのはすべて駄目なんだ。どちらも空疎な論理語じゃないか。
〈原発〉とは原子から直接エネルギーをとりだす技術だ。機械機構からエネルギーをとりだし、化学反応からエネルギーをとりだしてきた人類は、原子から直接にエネルギーをとりだしこれを制御する方法を得た。これは人類の進歩でなくてはならない。進歩した要素のある面が害であるといって、進歩のすべてを否定するものは退廃でなくてはならない。人体や精神が原子の微細な作用でうごいてゐるといふところまで現在の倫理は到達できてゐない。これが原子力の問題をむつかしくまた混乱したものにしてゐる。しかし原子力の制御をより確実にしてゆくほうにしか、人類の進歩は存在しない。それは人間がみずからの手や目として科学を発達させてきた、その本質から見てはっきりしてゐる。吉本隆明はこれだけのことをきちんと述べてゐる。