田中克彦の名にはじめてあたったのは、図書館をうろついてゐて「スターリン言語学」精読 (岩波現代文庫 学術 8)をみたときだっただった。ソビエト思想からとおくはなれた年代のわたしには、「スターリン言語学」といふとりあはせが奇妙にみえて、印象に残った。その本は読まなかったが、後日にエスペラントの興味から田中克彦のエスペラントにかんする新書を読んで、なんだこのバカ者は、とおもうた。こいつの脳内には文学をつくりだしてしまふ人間といふものの精神も、日々日本語をはなしてゐる人々の意識もなにもねえじゃねえかといふのがわたしの感想だった。
cf. 田中克彦『エスペラント ――異端の言語』 - 文学的悦楽 #book http://c4se.hatenablog.com/entry/20100518/1274160210
先日漢字が日本語をほろぼす (角川SSC新書)といふ本でまた田中克彦の名をみつけたから、ちょうどわたしの現在の興味にもあってゐるし、いっちょこの著者をやってしまおうとおもうて読み、考へをかへた。わたしは漢字をとくべつ擁護する気もまるごと否定する気もないが、著者の観点はほかにないもので考察にあたいすると考へることにした。その書のなかで「評判がよかった」と紹介されてゐた差別語からはいる言語学入門 (ちくま学芸文庫)を偶然に文庫でみつけたので、読んでみたところだ。
田中克彦の言語思想には、言語は現実にも意識にも直接ではなく、その双方にたいして関係であるといふ思想はない。言語の権力を〈言語学〉といふところでかんがへることができるのが田中のすぐれた点である。しかし田中は言語の現実と意識への直接性を無意識に信じてゐるから、〈言語学〉の外にでるとただの愚痴おやじである。ほんたうはこの一点でもって田中の〈言語学〉をすべて否定してしまってもいいのだ。民衆ただひとりといふ視点なしに言語の権力を比定し理想をつくれるものならやってみやがれ。わかりやすさを擬裝してひろげてみせる散文よりも、詩の隱喩の一語のほうが、はるかにひとびとにわかるといふのはあるのだ。もちろんわけもわからぬ喩に身を隠してかざった詩よりも、ひとつひとつの足運びを丹念にたどった散文のほうが、よりよく現実をみせてくれることもあるのだ。だが言語と〈言語学〉の社会性を、ただひとりでひろく体系的に考察してきた田中の功績は消えはしない。「言語は社会的だ」とさえずっておけば言語を考察したことになるちゃちな哲学者どもといっしょにできるものではないのだ。また日本をふくむ東北アジアの人々への田中の無意識なやさしさをかんじられれば、「愚痴おやじ」の顔もふくめてわかったことになるとおもふ。