ノートをそのままパソコンに突っ込みたい。手書きが身について了っているので。
2012-05-23
1
本能だといってしまえばその先はぜんぶ及ばぬ自然とみなし、言葉の外へと放棄していいのなら、そんな語はかんがえないほうがいいのだ。ある人間の行為や心情の傾向が、本能だというのなら、本能とはなんであるのか、人間のもつ傾向の部分、あるいは全部が本能であることは、なにを意味するのかを、解答しなければならない。
あれが本能でありこれが本能でないと謂うことに、たいした意味などありはしないのだ。わたしのかんがえでは、人間の存在を生命の領域へまで拡げて、疎外の領域として有る生命を、不均衡とみたときにかんがえられるものが本能である。本能は、未だ自覚になり統一した視座にない無意識を通って、そこへ行ったり来たりする層として存在している。限界な諦めであるためにそれは普遍でもなんでもないが、根源的な追究を諦めたときに思考がすぐに寄っ掛かる語である点では、普遍的だ。自由をうしなわせるよい場所である。
2
詞辞の繋がりは幾分かの規範体系に沿って成される。意識に依る表出は、ひとつの体系を簡単に沿うのではなく、複数の体系を往来して成り立ってゆく。これが、言語に詞辞が必要な理由である。だから、詞辞の繋続は転換に依って存立しているが、規範の体系たちが簡単に並立しているのではなく、往来してゆく層の形で存在しているために、転換も幾つかの異なる水準にわかれて成立している。単純に謂えば、(終)
3
欧米人はよく臨終の際に、他人の恕しを求め、自分も他人を恕す儀式のようなものを行うという話を思い出した。私は、敵が多い方である。もし新式な男が質問したら、私は何と答えよう。考えてみた。そして決めた。勝手に恨ませておけ。こちらでも、一人として恕してはやらぬ。
2012-05-25
1
意識は無意識の様々な運動を、或る視点から俯瞰したものであり、言語は幾つもの(規範の)体系を、或る中心から俯瞰したものであり、像とは言語(表現)を或る移動から俯瞰したものである。
cf. [資質と才能・イメージ #memo http://c4se.hatenablog.com/entry/2012/01/24/225155 ]
2
言語は意識の時間に継起するが、この時間は当然一単線ではない。
時間の複線が、それじたい自然と見做され、単線へとおしこめられるときに、時間の余剰が空間化してゆく。逆に、拡がった空間の内側へ入ってゆけば、空間に於けるものの関係が時間化する。