医学英語へのアプローチを読み、レポートを提出せよと云う課題。二回提出した。提出したレポートもおもしろくないし、腐るほどの未明に満ちているが、この本もまったくおもしろくない。
ver.1
英語を学ぶ理由はもちろん社会がそれを必要とするからであるが、目的とは、日本語圏に生活しない人と私が話や文でやり取りをするためである。医学教育に於いてはたとえば文献を読み書きするため、また患者とのやりとり、また学会での発表や討論のためである場合もある。
ここで言語を聞いて話すための条件を述べてみる。
聞く
- 復唱可能なものとして言語を認識する。(失語の状態→純粋語聾)
- 言語の意味を理解する。(失語の状態→超皮質性感覚失語)
- 聞く事を話す事へ連結する。(失語の状態→伝導失語)
話す
- 必要な語を選び出す。(失語の状態→失名辞失語)
- 語を文法により構築する。(失語の状態→失文法)
- 文を音声へ変換する。(失語の状態→構音障害)
以上である。
これらの条件を経路として描くこともできる。人は音を聞いた時、まずはそれを言葉として認識する。その言葉を文法から分解して、単語の意味への接続から文を像へと織り上げる。逆に話す時には、像から文法を取り出し、そこに必要な語をあてはめて文にし、それを発音する。この過程のある段階が欠けると失語となる。読み書きのときは音声からさらに文字へとなる。
日本語を話せている者にとってこの言語の機能自体は開通しているのだから、必要なのは英語に於ける言語の接続である。すなわち、
- 像と文法との接続
- 意味と単語との接続
- 文と音声列(あるいは文字列)との接続
である。単語を覚えるのはこの三つ目に対してだ。これがないと、言語を復唱可能として認知することもできないから、まずは単語を覚える。この時「基本単語」なるものよりも専門用語をおぼえた方が有利である。というのも、本当の基本単語は高校までで覚えてしまっているし、それ以上の「基本単語」は、書く時は辞書を引けばいいし、話すときは身振りなどで代用できる、英語をツールとするというのは、特定の分野で英語を使うのとほぼ同義である。よってその分野の専門語を代用しようとなると、英語を使えないことになる。
あとの二つは慣れるしかない。つまり繰り返す、しかし効率的に繰り返す。どうすればよいか・自分はどうしているかを理解しながら、その理解のプロセスを繰り返すのが肝要である。とくに文法では、英語がどんな言語なのか、この文法・構文はどうしてこうなっているのかを理解してゆく方が、無駄におおくのことを覚える必要がなく、よい。そしてこれらの英語の接続は、われわれが既に日本語使いであることから、当然日本語の下におこなわれるし、また「理解」という手法を使う為にはそうあるべきである。
となると、英語を使えるようになるためには、日本語が充全に使える必要がある。また日本語でできない或いはしないことが英語でできる筈がないわけである。英語をうまく話したり正確に聞いたり綺麗に書いたりよく読んだりするためには先ず日本語でそうせよ、文脈というのも言葉を理解する大切な全体であるのだから。そして、英語とは教科ではない、言語であり、心の像を伝えるものである。
2007
ver.2
英語というのは、もはや一民族や一国の言語ではなく、世界における情報伝達手段としての「記号」としての機能が重要となってきているのである。(第8章)
これは迚も大切な事だ。現代の英語と、例えば日本語とでは、普遍性の範疇が異なるのである。いわば英語は〈普遍語〉、日本語は卑小な地域語といえる。科学や数学だけでなく、文学の言語としてみたときにでも、情況はかわらない。英語は読まれ、それ以外の言語はヨーロッパ語でさえも読まれなくなってきている。「国民文学」の時代は終わったのだ。
〈普遍性〉とは何かに就いても論及せねばならないだろうが、今ここでは置いておいて、しかし「第二言語としての普遍性」に就いては述べても許されよう。一般に、第二言語を習得することでわたしたちは何を得るのか。新たな脳の機能回路を得るといってもいいだろう。がしかし端的に、新たな意味の体系を得るのだ。表出の新たな経路を手にするのである。其れがなにを意味するのか――わたしたちは普段日本に於いて、日本語を以て文化の集積の一端にいる。月並みに考えて、この巡れる集積が増えるはずなのだ。
言語学的な差を克服するためには日本語→英語変換時間を出来るだけ短縮するよう、基本的に大脳の神経回路を組み替えなければならないのである。(第4章)
「英語」を用いるにあたって、文法的に正しい構文や、前置詞の使い方に注意しなければならないのは当然のことであるが、情報を相手に誤解なく伝えることが出来る範囲であれば、多少の文法的逸脱は許されるであろう。(第8章)
これらの文体がみせる楽観的な響きとはちがって、普遍性に関してはとても悲観的なことがいわれている。「母語としての普遍」と「第二言語としての普遍」には徹底的な隔たりがある。第二言語は母語へ変換される。この〈翻訳〉によって失われる情報が多大だということは、経験的に自明だ。論理を以て述べてみてもいい。言語の翻訳は、或る指示の束から別の指示の束へ、意味の規則をたどって写してゆく作業である。多大な労力を掛ければ、指示するものをきっとほぼ同じにできるだろう。だが指示を同じにすればなおさら、言葉がもっていた歴史性は失われてゆく。たとえ苦心して歴史性を伝えたとしても、来歴は指示とは違うものだから、指示は曖昧模糊へきえてゆく。これはどうしようもない。つまり、第二言語から母語、あるいは逆へは普遍の形態は伝わらないのだ。それがどうしたのか? ――これが悲哀のもととなるのは、〈価値〉と〈普遍〉は間接的にしか関わらないと云うことだ。普遍とは同値の関係を基としている。別に、価値は時間の体系である。
論点を引き摺り回すようだが、此のことは文学の話にまったく限らない。科学、また医学の分野に於いても同じ事を論じられる。英語以外で、(受け取り手の)母語と第二言語の事を考えれば、英語圏以外で述べられたことは、常に或る分だけ普遍性が下がる。
しかし、その目標は相手に“英語=国際共通語”として理解される程度であれば十分であり、英語を母国語とする人達の様になる必要はない。ただし、何を考え何を発信するかはその人の日本語能力に根ざした教養であり、単にオウムのようにしゃべることではない。(はじめに)
正しい、全く。
だが考えられることはそれだけではない。英語を母語とする者は、「英語→英語変換」なるものに煩わされない、だから、特殊な事情のないかぎり、言語を以てする普遍の基盤と云うものに考えを及ばせない。つまりわたしたちには、言語の間でオープンにしてゆく、と云う課題に取り組みうる――そういうことだ。
2009-01-28
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纏め
「おべっか」の別名でしかない「課題」を書かなくてもいいのなら、この『医学英語へのアプローチ』という本は、できれば読みたくない本である。西勝英の文章がつまらぬ。
何故英語を使える必要があるのか。
わが国をとり囲む社会情勢は,国際化の一途を辿っており,医学,生命科学の分野でもその例外ではない.国際化時代における情報伝達の手段としての言語に,“英語”が多用されていることは周知の事実であるが,この科学情報伝達手段としての記号あるいは言語という視点からの“英語”教育は,十分に行われてきたとはいい難い.(はじめに)
このような文章は、喩えド素人であろうと「英語に就いて何か書け」と言われれば書くような動機である。あんまりよく聞くものだから、しっている…、もうしってるよ……、と目を伏せてしまう。また西勝英が頻繁に引き合いに出す神経学的な説明が、板についていない――なくてもいい、ものばかりに成っている。あげくに「格調高いJapanese-Englishを目指して」と書き出す頃には、頭痛と共に読んだ事を悔いる気持ちが滲んでくる。ver.1は課題文をまったく無視した。ver.2は、課題文を考慮せよときたものだから、意図的な引用とともにとりあえず褒めておいた。勿論レポート本文は課題文とは関係が無い。
英語は〈普遍語〉である。日本語などが世界で流通することは、最早夢と消えて仕舞ったとみるがよい。これは、英語で書かれた文章は、その要素のみに依って普遍性を得ると云う事だ。
或る文章の普遍性とは、純粋にその文が流通する空間を、時間に沿って積分した値だと見做せる。普遍と価値とはおなじではない。そもそも言語は二つの要素、指示の体系と価値の体系とに把割できる。これには明確な根拠がある。つまり或る言葉をコミュニケーションとして、記号として使う場合、それは言語の指示性を参照しているのであり、また言葉の歴史や沈黙を考慮するならば、それは価値の経路を参照しているのだ。