少し「おいおい」感有ります。
2012-05-29
1
「日本の自殺」など読むと、西部邁などが〈保守〉だ〈保守〉だというのもわかる気がする。本人たちの危機感が過不足なくあらわれていて、これに太刀打ちするためには、相当の生命力をかけなければならない。
- 作者: グループ一九八四年
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2012/05/21
- メディア: 新書
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2
現在のわたしたちに、おおくの社会現象が病理にみえるとすれば、社会に分散する個別の部位が、それぞれ異なる測度で動き、調整が返ってくるよりも部位のうごきが速いために、内側からみるかぎり交通がとれない。それ故或る部位では正常にみえることも、別の部位から透かしてみると、病的に固執あるいは分離してみえる。固執を解きほぐしたり分離を調和させたりするためには、病理の概念を、視角をふくむところまで拡げてゆけばよいことになる。
3
おおくの人々は思考をしないのではない。かれらは考える、迚もよく考える。わたしたちも生活をする点に於いて、かれらと一切変わることはない。ただ考える者は、内からも外からも、自身の一貫性を強いられる存在だといっていい。考えとは別のことを専門とし生活する者たちが考えるというのは、「折々にふれて」という性格をもっている。これらの者の思考は、生活の様々な場面で励起し分布しているが、それぞれの思考は局所的な部位に付着している。そして付着している限りに於いて、どこまでも現実的である。考える者も、折々にふれて返答するにはちがいない。しかしわたしたちは考える者として、各所に分布した系列のあいだを、辿ってゆくことができなければならない。だから考えに於いては、だんだんと内へ潜ってゆくことと、どんどん外へ遠のいてゆくこととは、同義となってしまう。内側の奥深くと外側のいと遠くとにはさまれた中間の領域のことを、自動的には思考はわすれてしまう。この領域を問うことは、思考にとって〈起源〉を位置付けることにあたるといってよい。
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法律とは、ひろく生活や経済活動の過程でおきるtroubleを予防したり解消したりするためのものだ。ある分野がcriticalで、どう行動してもtroubleとなるとき、法律は単純な規制となる。だがほんとうは、troubleを予防したり対処したりする幅広いものとしてかんがえるべきで、それが現象としては、規制としてあらわれたり、宗教的な面ももっている。
法には憲法と、それ以下の法律とがあるが、法学に於いてくわしいとおり、法律は、われわれの活動の途中に遭遇するtroubleを調停機関がどう対処したり予防するかを定めるもので、憲法とはこの調停機関自体を、民衆がどう形づくるかを定めている。実現の度合いはどうあれ、これが近代法学の理念になっている。活動の障碍を解消するための法が近代国家のなかにおかれたとき、憲法とそれ以下の法律とに分離されたのだといっていい。
契約とは幅広いものである法の、現象のひとつである。調停する法の水準がかわる度に、契約のあらわれ方もかわってゆくにちがいない。契約に象徴させて法をかんがえることは、契約という現象を普遍へと拡張してゆくことにあたっている。
2012-05-30
1
音楽は言葉に追いつかれてはならない。洞の様な音楽をつくるのかと云う予兆はもっておいた方が好いし、出来上がった音楽が洞う云ったものなのかは、望む限り辿れた方が好いが、作る前の音楽の、未だ見ぬmotifは、予兆としてしか言葉にはできない。言葉で作る作品が、少なくとも仮のmotif位いは言葉にできるのに対して、音楽の予兆の在り方は、此れとは微かにちがう。逆に未来が言葉になってしまうようだったら、其んな音楽は作らなくても好い。素直に言葉を述べ給え。
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詞辞の繋がりを違えるところに詩の工夫があるが、詞辞を明確につづけて外から構成してゆくところに小説の工夫がある。詩に外からの視角が無いのではない。だが構成する意志は、詩にとっては分野自体の外から、謂わば〈詩集合〉とでもいうべきものに働いている。
詩に於いて重線性は、傾向として詞辞の接続へ集約されてゆくが、小説に於いては詞辞は比較的滑らかに繋がり、重線性は、光景 (scene) の繋続や人物の転換、場面や人間の関係へ集約されてゆく。
cf. [本能だといってしまえばその先はぜんぶ及ばぬ自然とみなし #memo http://c4se.hatenablog.com/entry/2012/05/30/181905 ]