2012-05-05
橫假名で、文節ごとに分けて書いてるから、リズムがおかしい。
1
死に瀕した者を目のあたりにすると、わたしたちは知らず意識して、目のまえのものの絶対性を背負おうとする。相手を、世界と錯覚するからだ。勝手なものだ。死ぬ者が、自分の絶対性を、ひそかにおもうのは、まったくの自由だが、それに、端でみているのにちがいないこちらが関係するのは、大きな御世話だ。しかしこのまちがいが避けられないものであるために、この時間的な錯誤が、運命のはじめなのだ。
2
人生を単線的にかんがえる錯誤は、多く、努力するのも才能であるといういきづまりも、この見あやまりから発している。
3
CSSやJSのvendor-prefixは、本来もなにも、標準的な規定までの準備として、未来のためにつくられ、つけられたものであった。よってそれを、今あるものと追いたてられて、実用してみたvendorとuserにとがを負わせるしかない。しかしほんとうは、競争力の過急に強いweb-browserやweb-designの産業では、標準規定の正弱の段階をもうけることは、vendor-prefixほどの段差をしつらえても、た易くふみこえられて了うことを学ぶべきなのだ。
Operaが率先して、他社のvendor-prefixを自分たちのものに自動に変換して解することは、現状とじゅうぶん照らしあわせるならば、ただしいというしかない。vendor-prefixは目的の機制を成し得ているかぎり、他社のものに手をつけるのは勝手なことである。だが踏みこえられた穴を無視して居座れるほど、Operaは大きな会社ではないようにみえる。体力におごりをかんじる者や、過去をなつかしみ無関心へと住みついていられる者は、好きに否難するがよい。
4
書きつつあるものがかぎりなく空虚だという抵抗感は、絵にあたっているときとも、音を組みあわせたり変調させたりしているときとはちがう。
人に会いにこやかにお喋りしたあとの、自尊的な不快感はなんだ。わたしはおもったほどにはわたしを負うことができない。こういった、じぶんをまちがう範囲が意識である。この負いまちがいを、わたしたちはしかし、運命の名に負わなければならないように、わたしたちはできあがっている。
5
意識からみた自然の時間は単線的であるが、心的な領域は、この自然からのいまだ知り得ない選択として成り立っている為に、分岐と重合を繰り返す複合的なものである。単線的な時間が、心的な領域にいやおうなくやってくるときに、偶然と必然とが等しくなり、わたしたちはこれを運命と呼んでいる。
類型化していえば、単線性からの分岐は、うまれてから幼児期に至るまでにはじめてやってきて、迂曲あって、そのつぎには青年期に、社会のみえる全体性にあてられたときに、殆どは決まってゆく。この、うまれながらの資質のようなものの、いくどもやってくる反復と、青年期に獲得した外側の社会との差異を、運命といいかえてもいい。
6
たかだか文章を現実に対抗させようとするならば、わたしたちのことばは、詩的になってゆくほどに、ことばはちりぢりである。しかしほんとうに詩になってしまうと、わたしたちのことばはまったく現実から逃げてしまう。
言語の史と、社会的な空間を一手に握りしめてかんがえることである。
7
様々な問題が、歴史的な反復の層であらわれるのは、思考の時間性と空間性とが一定の構造を介してたがいに入れかわるからにおもえる。
cf. [資質と才能・イメージ #memo http://c4se.hatenablog.com/entry/2012/01/24/225155 ]