c4se記:さっちゃんですよ☆

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失語 - ネム vs. 吉本隆明の言語論 (……?)

石沢玄(平川克美)さん「絵画的精神」
 http://www.tatsuru.com/guests/ishizawa.html

ただ、どんな正常な人間でも、ある瞬間に、あるいは、傾向としておこりうるあの<喋言ったってしょうがない>、<喋言ることがたくさんあるのにそうするのは空しいからやめる>という<失語>をくわえなければならない。この最後の状態では言語の<概念>の成力にも、言語の<規範>にも心的な不全はない。ただ、なにかがかれをおしとどめる。おしとどめるものは、かれ自身の存在そのものである。
吉本隆明「心的現象論」)

正常な人間におとずれるこの失語は、一見「喋言りつくせはしない」「解ってもらえるはずはない」といった喋言ることが機能として持つ不充分性へのあきらめに起因しているように見える。しかし人が喋言るのは、必ずしも相手に己れの意志を伝達するためだとは限っていない。こころに浮かんだことの自然な発露であるかもしれないし、欲求の流出であるかも知れない。そして何よりも、自分自身と他者の関係を自然で円滑なものにするための潤滑油のようなものであるはずだ。人は後で反省的に考えるほどには、意志の正確な伝達ということを期待してはいない。むしろ、「他者に正確に己れを伝えることなどできはしない」ということを、人間は体験の積み重ねの中で、暗黙裡に了解しているからこそ軽やかに「お喋言り」ができるといえる。
したがって、「喋言ること」のパラドックスが語っているのは次のことである。人に喋言ることをおしとどめるのは、他者というものがよく解らないからではなく、他者というものが余りにはっきりと見えてしまうからである。つまり、固体としての人間の存在自体が、他者(他人・社会)に対して保持している先験的なずれ(・・)、異和、転倒した関係、こういったものが見えてしまったとき、それが人に喋言ることをおしとどめるのだ。吉本隆明が言っているのはこういうことである。そして、もしこう読むならば、失語とは必ずしも余儀なく陥ち入った場処ではなく、自らを他者(他人・社会)から守るためにすすんで選択した手段でもあるといえるだろう。また、自分というものと他者との関係が最も露骨に見える場処が、失語なのだといってもよい。くり返すが、他者がはっきりと見えないから沈黙するのではなく、見え過ぎるから沈黙するのである。このことはたとえば、メルロー=ポンティがレンブラントの「夜警」に触れて、「物をそれとして見るには、光、明るさ、影といった物と空間の戯れそのものを見てはならない」と言っていることと相応している。

過去を視ることと未来を喋ることは、別物である、というようなことを言ったのはジル・ドゥルーズだったか。私の脚色が入ってはいるが。
発語は明らかに〈行為〉に属する。これは未来へ向かって情報を捨てて、世界を限定することを意味する。逆に視ることは〈感覚〉であり、情報を得て、世界を拡大することだ。
人はどうして情報を捨てるのか。それは情報が乱立していてどれが必要なものか判らないからだ。ここで人は選択する。
では〈自己〉の必要と情報が一致していればどうするか。人は行為をやめるだろう、この場合は失語するしかない。

おぼえだけど、吉本隆明は失語に関する基本として、自己表出からの概念力の異常と、指示表出からの規範力の異常に分けている。勝手な問題として、吉本のこの自己表出/指示表出による言語論は有効か、という話も提起せねばならない。というのも、私は視座論に於いて、内包視線 - (普遍視線) - 世界視線 という、吉本の時間化度/空間化度とは全く違う理論を持っているからだ。自己表出/指示表出の言語論は時間化度/空間化度の心的現象論へ強く接続されているのだから、片方を否定するのならもう片方も言わずもがな、成り立たせてはならない。
(いずれ別エントリ。)