c4se記:さっちゃんですよ☆

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うんざりする書評セブン #memo #book

[.。oO(さっちゃんAdvent Calendar) http://atnd.org/events/22829 ]6日目
まともな文章が書きたい。はぁ。。

ジャック・デリダ『声と現象』

精神の場所

声と現象 (ちくま学芸文庫)

声と現象 (ちくま学芸文庫)

序論 p25
平行するものを区別するこの無に等しいもの、この無に等しいものがなければ、まさにどんな解釈も、つまりどんな言語も、なんらかの実在的環境によって歪曲されることなしに真理の中で自由に展開されることはできないだろうし、この無に等しいものがなければ、どんな超越論的な問題も、つまりどんな哲学的な問題も息をすることはできないだろうが、この無に等しいものは、言ってみれば、世界のその全体がその現実存在のうちで中立化され、その現象に還元されるときに出現するのである。この操作は超越論的還元の操作であって、どんな場合にも、現象学的心理学的還元の操作ではありえないのだ。

間隙

ある人物に悩みを吐露されたときに、その懊悩を相対化するのはひとつの手だ。その懊悩はおおくの悩みのまえでは深刻でないのだよとか、世界はおまえに無関心だとか、突き放してなぐさめることも自由である。だが相手の苦悩を、すこしでも汲み取ろうとすれば、相手と世界とのかかわり、すなわち精神の場所についてかんがえることは、さけてとおれない。このときに、しょせん精神は脳の物質的な産物である、とほざくのは最悪だ。このような、精神から逃避することでしか現実に場所を得られず、あまつさえ世界との関連を茶化すことしか能のない連中には、ぬかしおる、としかいうことはないが、翻って精神の占める場所とはどこなのかこたえようとすると、言葉につまってしまう。おそらく、言葉につまってしまうということが、こたえなのだ。精神の場所は、無に等しいものなのだ。

西田幾多郎西田幾多郎哲学論集』岩波文庫

超越の非可解性

無の自覚的限定(序) p255-256
単に合理的なるものは実在ではない。しかし非合理なるものが縦、非合理的としても、考えられるという以上、如何にして考えられるかが明にせられなければならぬ。非合理なるものは考えられないというならば、その然る所以を明にせなければならない。考えることができないというのは、既に考えることであり、そのこと自身が矛盾でなければならない。個物的なるものが考えられるというにも、其れが考えられるというかぎり、何らかの意味において一般者の自己限定として考えられねばならぬ。個物を包む一般者というものがなければならぬ。私は何処までも自己自身を対象的に見ることのできない、しかも自己において自己を対象化する我々の自覚的限定と考えるものを一般者と考えることによって、かかる矛盾を解き得ると思う。

吉本隆明『最後の親鸞ちくま学芸文庫

絶対性の信

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

最後の親鸞 p19
たしかに、〈わたし〉は相対的な世界にとどまりたい。その世界は、自由ではないかもしれないが、観念の恣意性だけは保証してくれる。飢えるかもしれないし、困窮するかもしれない。だが、それとても日常の時間が流れてゆくにつれて、さほどの〈痛み〉もなく流れてゆく世界である。けれど相対的な世界にとどまりたいという願望は、〈わたし〉の意志のとどかない遠くの方から事物が殺到してきたときは、為すすべもなく懸崖に追いつめられる。そして、ときとして絶対感情のようなものを求めないではいられなくなる。そのとき、〈わたし〉は宗教的なものを欲するだろうか。または理念を欲するだろうか。死を欲するだろうか。そしてやはり自己欺瞞にさらされるだろうか。たぶん、〈わたし〉はこれらのすべてを欲し、しかも自己欺瞞にさらされない世界を求めようとするだろう。そんな世界は、ありうるのか?

不可避の大衆

思想は表現されるものであるために、対他的に表現される。こんなあたりまえのような自同律が、おおくの思想がまっさきにつまづく矛盾である。あるものは、思想は自分のものであるとして、理念の自動運動にみをまかせ、拡散する世界からはなれることをよしとする。べつのものは、思想はあくまで対他にあるものだから、ただ〈関係〉で存在するものだと、自存できなくなるまで社会へ拡散するのをよしとする。ほんとうは違うのだ。思想は自己から外へでてゆき、それによって自己へ還ってくる矛盾でなりたっている。
〈啓蒙〉という形いがいで、思想が世界とかかわるすべはないのか? 自分も社会も捨てず、そのふたつを勝手なイコールで結ばずに済む方途はないのか? すべての根源を絶対性へ仮託してしまわずに、絶対性を相対化し、相対性を絶対化する方法はないのか?

吉野裕子『蛇』講談社学芸文庫

呪術の論理

蛇 (講談社学術文庫)

蛇 (講談社学術文庫)

序 p13-14
日本原始の祭りは、神蛇と、これを斎き祀る女性蛇巫を中心に展開する。
その祭りの第一義は、「女性蛇巫が神蛇と交わること」。第二義は「神蛇を生むこと」。第三義は「現実に蛇を捕らえてきて、飼養し、祀ることに分解される。
第一義は、事実上、不可能なため、蛇に見立てられた円錐形の山の神、あるいは蛇の身体に相似の樹木、蒲葵または石柱などの代用物や代用物との交合の擬きをすることになるが、第一義の意義はこの形で確実に生かされると彼らは考えた。第二義の蛇を生むことは、つまり捕らえてくることで、これは容易に実践され、第三義の容器に入れて飼育し、祀ることも厳守されたと思われる。
(引用略)
本土においては、祭祀権は男性に奪取され、必然的に祭りの第一義だった神蛇と巫女との交わりは失われる。
しかも、失われつつなおそれが記憶され、祭りの諸所に顔を出すために、陰陽五行の導入と相俟って、日本の祭りは複雑難解な様相を呈するに至る。

古代への精神

吉野裕子の論理を読んでいると、これは歴史ではなく魔術なのだ、わたしはいま占術をおこなっているのだ、という気にさせられる。事実の系列は観念のうしろにかくれ、隠喩としての意味だけがゆるされている。ためしに植物をとおして、蛇と関連される事物をあげてみる。

蛇に見立てられた植物一覧 (第一章 蛇の生態と古代日本人 p62)
蛇の状態見立てられた植物象徴
静態(男根状)蒲葵(檳榔)・棕櫚扇(形態)・菅・藁(繊維形質)・蓑・笠・縄・箒(加工品)
梛(竹柏)・黄心樹・朴木神木
竹・松・杉・檜など神木・檜扇
動態(蛇行状)藤・籐など
蔓植物類
蛇の頭相似酸漿の実莢神木
特殊例梶(解字法による)神木

この調子で、ほかにも山、墓、鏡餅、産屋などが、蛇の隠喩としてつなげられてゆく。吉野裕子の事物をあつかう手つきにつきあってゆくうちに、われわれは、自体としてはどうでもよく、これは魔術師の観念なのだ、魔術師の思考としてはただしいのだ、と納得するしかない。そしてどう考えても、古代に祭祀をつくりあげてきた人々は、魔術師の思考をもっていたにちがいないのである。

紅玉いづき『ガーデン・ロスト』メディアワークス文庫

〈青春〉のはじめ

ガーデン・ロスト (メディアワークス文庫)

ガーデン・ロスト (メディアワークス文庫)

第一章 春の繭 p35
私は心底マルに甘いし、マルはなんだか、甘やかすのにふさわしい子だった。昔からそうだ。生まれつきなのか育ちなのか、守られることが当然な子。
マルはそんな子だから、怒っても仕方がないし、もう怒りはなかった。
でも、会話を再開されるにはもういい時間だった。門限だって迫ってる。だから私は、ため息をひとつ、「今晩ね」とマルに言った。
「行くから。英語の課題の提出がめんどうなの。行ってもいいよね?」
うんっ、とマルが大きく頷く。頬がキラキラとしている。私達は手を振って別れる。いつまでもマルは、私を見送っている。
捨てられた子猫みたいだった。

運命の外部性

資質と運命が交錯する〈青春〉という年代は、どのようなものの人生そのものであるにもかかわらず、おそらく解かれたことのない謎である。〈青春〉はどこではじまる契機を得るのか。どう経過して、ついにどこで終りを迎えるのか。
〈青春〉が反抗期とよばれる所以は自明である。人生ではじめて、他人の構成する社会とであい、いままで家族と築いてきた対他性とせめぎあうからだ。家族からはなたれるほどに、自己意識が上昇したからだ。この意識は、おなじくせめぎあい上昇しつつある他者の自己意識と出会う。この関係は、互いに他者を成してゆくために透明で、やがて社会に並置されるために、終りを迎える。

桜庭一樹少女七竈と七人の可愛そうな大人』角川書店

家族のおわり

少女七竈と七人の可愛そうな大人

少女七竈と七人の可愛そうな大人

序論 p25
「わたしは、この人が死んだから、炭になっちゃった」
死んだ人のような声だ。わたしは急にぞっとする。
「もう、どこにも行けやしないわ」
誰かが短く、なにかつぶやくのが聞こえた。母を見て、会場にいる女の一人が、なにか言ったのだ。わたしは母のとなりでかたまっていた。
遺影のそばにいる、田中先生の妻らしき中年の女性が、みじかく叫んだ。
桂家の人々もいた。雪風の姿も見えた。うつむきがちにして立っている。

構築する遺棄

本書も〈青春〉のおわりを焦点としているが、それは友情や恋愛のかかわりではなく、家族の問題としてあつかわれている。七竃の母は、夫をもたず、いまも不特定の男性と性的関係をもっている、自己遺棄のつよい人物であるとされている。娘の七竃は、自己遺棄の資質をもっていても、自分を放棄した母の遺棄へと転化されている。
桜庭一樹の物語では、たとえ友情や恋愛のはなしが書かれていたとしても、いつもどこか、親子の垂直な関係がかくされて支えているきがする。家族のしづかな放棄が、そこには理念としてかくされている。

灰根子『カミキレ』新風舎

無化する自覚

カミキレ

カミキレ

天使のこども p36
夏の終わりに拾い集めた
蝉の抜け殻
握りつぶし
羽化を待つ
天使のこども
掻き集めた枯れ葉裏
身を寄せ合い春を待つ
冬の終わりに食糧尽きて
共食うは
羽化を待つ
天使のこども