Descartesさんの言葉はかなり昔から私を導いてきたと言ってよい。方法的懷疑を私は永遠極限と呼び換へ、cogitoを此の經驗と呼び換へた。初めて體系を書いた時に私はこの二つの言葉から始めたのだった。私のDescartesさんに就いての知識は、『方法序說』を輕く讀んだ事、DescartesさんからEdmund G. A. HusserlさんとJacques Derridaさんの二人を經由した解釋、そして『哲學原理』の和譯を詳しく讀んだだけだった。
私とDescartesさんの違ひは二つあった。一つには私は神を想定しなかった事だ。Descartesさんの體系では自然についての認識は神が保證してゐる。神は自然の光卽ち良識を保證する、この事がcogitoと神以外の全ての認識を保證してゐる。私はこの神のやうなものは在ってもよいと考へ、それを世界視線の語を借りて呼んでゐた。しかし世界視線は何を保證するものでもない。そこで、Descartesさんは自然を正しく認識できると考へたのに對して、當時の私は自然を像と見做した。
もう一つ、Descartesさんはcogitoを對格としても明晰判明に認識できるものとしてゐる。當時の私の考へではcogitoは與格に於いてしか明晰判明でないもののはずだった。今囘Descartesさんの主著である『省察』を讀んで、私は思ひ違へてゐたと知った。Descartesさんにとって、精神的な實在と物體的な實在とは同じ「實在」と名が附くものの、全く異なってゐる。物體は質料的な實在であって、自然の光によって認識されるものだ。一方で精神的な實在は形相的なもので、質料的には全く實在せず、明晰判明に認識されると云ふ意味でだけ實在するものだ。自然科學が天を覆ってゐる現代の我々としては物質的なものが實在だが、Descartesさんにとっては、物質的なものは懷疑されるもの、精神的なものは懷疑され得ない眞の實在であって、精神的な實在によって物質的なものが初めて實在と言ひうるものになる。實在と言ひうるものだが、懷疑しうるものであって、不明晰にのみ認識される對象だ。精神的な實在は、不完全だとしても明晰に、認識されるとしたら明晰にのみ認識される。神もcogitoと同じく精神的に實在するものとされてゐる。cogitoや神が質料的に實在してゐるとはDescartesさんは全く考へてゐない。これらは物質的には無に他ならない。しかし物質のはうこそが無になりうる無でないものなのだ。物體は實在するのだが、「實在」といふ言葉の意味が精神とは全く異なる。現代の我々からすれば、精神の形相的な「實在」の意味こそが見知らぬものだ。現代の我々が素樸に考へる神の存在論的證明とは違って、Descartesさんの存在論を認める限り、そしてcogitoをDescartesさんの意味で認める限りはDescartesさんの存在論も認める他になく、この場合にDescartesさんの神の存在證明は反論できない。つまりDescartesさんの神の存在證明を認めないならば、cogitoをDescartesさんと同じ意味では認めてゐないはずなのだ。cogitoに贊同して神に反對はできない。もっとも、Descartesさんの神が聖書の神と同じであるか否かは證明されてゐない。以上は、形相的な實在といふ中世神學的な考へに私が慣れ親んだからわかった事だった。Descartesさんの考へは、Baruch De Spinozaさんの平行論と、認識論としては殆ど同じだ。これはここ一年近くSpinozaさんに傾倒してきた私にとって發見だった。
