c4se記:さっちゃんですよ☆

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義憤って「いびり」のことだよね?

id:Romanceさん↓。
それが義憤ってやつなんですか?
 http://d.hatena.ne.jp/Romance/20080822#p1

一応「お怒りはごもっとも」と先に言っておきますが、それにしてもこのコメントはひどいです。こうした厳罰主義が抱いている精神をこの事件の中学3年生風に表現するなら、「少年犯罪者をいじめて何が悪い」もっと言うと「少年犯罪者を殺して何が悪い」となるでしょう。確かに、id:reponさんやid:guldeenさんは実際に殺したりしていないし、直接的な暴力を振るったわけではない。だから、先に引用したコメントをもって「あんたたちだって犯罪的じゃん」などと言うとすればそこには大きな飛躍があるし、そう言いたいわけではありません。しかし、公憤・義憤の体でもってあけすけに語られる厳罰主義が、まさにこういう少年たちを生み出したのではないのか? と一方では思うのです。
この事件の特徴はまさに、被害者が障碍者であった点です。そして、弱者への暴力に対して開き直る少年たちの態度は醜悪です。そして、少年たちが「障碍者殴って何が悪いの」「ホームレスなんていらない連中じゃん」と言ったときに、良識ある大人たちは眉を顰め驚きと困惑の色を浮かべてみせるわけですが、かと言ってその少年たちは昨日地球に到着したわけでもなければ、今朝脱獄してきたわけでもない。彼らは良識ある大人たちが築いたこの日本社会で育ち、ただ大人たちの真似をしているだけです。過ちを犯した者に「吊るせ」と叫び、経済的に敗北した者たちに「自己責任」を迫り、鬱屈した怒りを抱える若者に「世の中に絶望したのなら命を絶てばいい」と言い放つこの社会が、少年たちに教えるのはこういうことです。つまり、「『良識的で品行方正な一人前の社会人』になりなさいよ。さもなくばクズですよ。」と。障碍のために「一人前の社会人」とやらになり得ない人々のことを、少年たちが「劣った存在」と看做したとしても、そう不思議はありません。そして、「劣った存在」とされた者たちはこの社会においてどう遇されてきたか? 懸念を表明され、避けられ、時に嘲笑され、またあるいは「かわいそうな人」と哀れみの眼差しを向けられてきたのです。また、彼らがひとたび法に背いた振る舞いをしたならば、お上による強権的な対処が待望され、究極的には「死刑」に、つまり殺害されてきたわけです。
reponさんその他、この事件に対して「殺してしまえ」「実名を公表して社会的に抹殺してやれ」「同じ障碍を負わせろ」などと叫ぶ人たちは、もしかしたらある種自分を保つようなつもりで、すごく切実な思いで厳罰を叫んでいるのかもしれません。この少年のあけすけな発言は、「弱者との共生」という理想に対する、全く身もフタもない根本的な疑義であり、そしてまたこの発言は、人間存在の野蛮性、私たちの誰もが内奥に秘めている(だろう)醜悪な「何か」を、図らずも指摘してしまっているのかもしれないからです。もしかしたら、これが義憤というものなのかもしれません。誰もが犯罪性と地続きであることを強く自覚しているからこそ、犯罪者をことさらに恐れ、隔離し、殺害しようとし、それは個人的な暴力とは全く別種のものとして正当化されてきた。社会の安寧のために、社会の暴力・国家の暴力は肯定されるばかりか、歓迎されるのです。
そこで私が言いたいのは、本当にそれでいいのか、ということです。「殺せ!」などの暴力的な言辞は、公憤や義憤としてなら許されてきたし、実際に犯罪者は殺害されてきた。そして、良識を自認する品行方正な良民の皆さんは、今まで「出来の悪い人間」「無作法な人間」「劣った人間」に冷たくしてきたのではなかったか? 「これから婚約者の両親に会おうというのに、酒の力を借りた?」「自分の親が常に酒臭い子供の気持ち考えたことあるの? 自分がそんな親になってしまう可能性があることを知ってるの?」 こうした「アル中は身内にいりません」というのも同様です。アルコール依存症は病気です。もし愛する人が重い病気にかかっていたと知ったからと言って、「この時点で私なら別れるな。」とはとても言えないでしょう。しかし、「酒臭いダメ男」は良識に反し、一人前の社会人として失格だから、公然と見下したところであまり問題にはならないわけです。こういう大人たちの背中を見て育った少年たちが、例えば障碍者たちを、労働生産性や振る舞いの品行方正さの観点から「ダメな連中」と看做したならば、少年たちが「公憤・義憤にかられて私刑を執行した」として暴力を正当化していたとしてもなんの不思議もありません。「社会に対して有用か」というスケール、「あなたは社会にどう貢献するか」というスケールばかりが目立つこの社会でも、その一方で「弱者との共生」はちゃんと掲げられてはいます。当たり前です。あらゆる人間は基本的人権を有し、尊重されなくてはならないからです。つまり、「社会に対して有用か」というスケールはその上に成り立っているものにすぎないし、少年たちはそこに誤解があったわけです。障碍者に対する暴力への怒りが、少年たちへの厳罰として表明されるとき、少年たちの人権は全く軽視されています。だからそんなものは公憤や義憤としては極めてお粗末なものです。「公」や「義」の名のもとに語られるものがあるとすれば、それはこの日本社会の多数派である品行方正な良識派の皆さんのケチ臭くて排他的なコミュニティの中にはありません。どこを探してもありません。怒ればこそ、普遍的な理想を語るべきだと思います。


に対して、
id:reponさん
巨悪になったお
 http://d.hatena.ne.jp/repon/20080823/p1

何気なく3k新聞の煽り記事に釣られてブクマしてみたら、悪の巨頭になってしまった。
それが義憤ってやつなんですか?さん
エントリの主張は「人間は善も悪も抱えている存在だから、誰かを排除することは原則的にしてはならない」という一般論だから、その部分については異論はないですね。
僕にはこんな知的なエントリは書けないね!目から鱗が落ちるよ。鱗から目が落ちたら怖いけど!!
ただ、僕も生身の人間なので、いきなり巨悪にされて退治されるとびっくりするんですね。
ブクマに何か書くと、ここまで叩かれなくちゃいけないのかと。
これって、まるっきり戦隊ものと同じ構図じゃないですか。
悪は正義の側が決めるわけです。
それは、元記事に対して「良識ある大人たち」がした反応と大して変わらない気がしますよ。

ここから始まる生産的な論議
 http://d.hatena.ne.jp/repon/20080824/p3

前段で、産経の記事の「物語」にまんまと乗った自分のリテラシーのなさは確かに問題だが、それはそれとして反省するとして、一番重要なのは、このエントリの最後の言葉に続く、「普遍的な理想」とやらだろう。
正直、この「理想」を具体的な形で示せない限りは、件のエントリは単なる言葉狩り、魔女狩りに過ぎない。
「それはみんなで考える問題です」というのは、要するに中身はすっかすかでした、と言う表明にすぎないだろう。
id:Romance氏、及びこのエントリに賛同する方は、「気軽に『死刑』と言えてしまう厳罰主義者」たちを憂えて、気持ちよくなって終わるのではなく(それではこのエントリの厳罰主義者たちと同じですよ)、ではどうやって共生していくのか、その具体的な方策について語るべきだろう。
「それは専門家が考えるべき事で、私はポピュリズムに対して警鐘を鳴らしただけだ」というのは逃げですね。
もし逃げるつもりが無ければ、ぜひ「普遍的な理想」を具体的な形で提案していただきたいと思うわけです。

物語に取り込まれないこと
 http://d.hatena.ne.jp/repon/20080824/p4

そもそも産経新聞の元記事は、多分に扇情的で、加害者・被害者の背景もなく、明らかに「コマッタ少年がいる」というスタンスで書いているわけで、まんまとこの物語に扇動されて「死ねばいいのに」などのタグをつけて私などは気持ちよくなったわけです。
それがどういうわけか、代表的な意見のみならず、社会を構成する中核として位置づけられ、一言で言うと「悪の親玉」にされてしまうことは大変遺憾ですが。
だいたい、はてブに「死刑」とかいたところで現実にどれくらい影響を及ぼすのかというと疑問ではありますが。
そこら辺はリテラシーの問題だと思います。


Romanceさんの種々反応は、

私は、障碍者の人権を尊重するのはもちろんのこと、酒臭い親父だろうがDQN少年だろうが犯罪者だろうが、ちゃんと人権を尊重しろよと言ってるだけです。

「差別を糾弾するのは差別者に対する差別だ」みたいなパターンですね。私はid:reponさんを殺せとも去勢しろとも言ってないんですけど。発言の問題性を指摘することと、選別主義を叫ぶことは全く違います。だからダブスタでもなんでもないです。

というものである。


私はreponさんがRomanceさんより格下だと明言しておく。
言論の批判を私的な個人攻撃だと取るのも、相手の及ばぬ所を、そこは自分も及ばぬ所なのに相手の根底的欠陥として、つまり「及ばぬ所」ではなく「存立理由の無いもの」として述べるのも、話をそらすパターンである。第三者からは話がそれていないようにしか見えないのも経験的に自明である。
問題は二つ。
自我は優越の機関である」ということ、
理想とは共同の最小限である」ということ。