普段正字正かなづかひで暮らしてゐます。「正字」は別に「舊字」とも呼びます。「正かなづかひ」は別に「歷史的かなづかひ」「舊かなづかひ」とも呼びます。對して令和五年によく見掛ける日本語の書き方は「新字体 (新字體)」「現代かなづかい (現代かなづかひ)」と呼ばれてゐます。
新字体は「俗字」、現代かなづかいは「俗かなづかひ」だと思っています
私は「舊字舊かな」ではなく「正字正かな」と呼んでしまふ暮らしをしてゐます。正字正かなを使ふ理由は、世閒體を思って普段は「趣味」と言ってゐますが、實際には暮らしです。正字正かなに住んでゐるやうなものです。
漢字は手で書く時に省略したり崩したりします。常に楷書體で一畫もずらさず書く人は珍しいのではないでせうか。走り書くでせう。門構へを省略するのは今でもよく見掛けるのではないでせうか。新字体には、昭和初期までに通用してゐた「俗字」を基に作られた字も多いのです。作られた時から結構見慣れた形だったのですね。そんな經緯も踏まへ、「正字」に對して私は新字体を「俗字」と呼んでゐます。「正」の反對は必ずしも「誤」ではありません。「俗字」を「正」だと主張するのは「誤」だと內心では思っています。しかし字を崩したり變形するのは、font を選ぶのと同類で、やりやすかったり趣味に合ったものを時々で選ぶものです。現代では正字で暮らす人は少ないので、この環境で正字で暮らしながらも正氣を保つ爲に、「誤字」ではなく「俗字」の一つだと呼び過ごしてゐます。
現代かなづかいは正かなづかひを變形して定められたものです。これも「俗字」の類比として「俗かなづかひ」なのだと內心で思って過ごしてゐます。
正字と正かなづかひは別々に使へます
正字は、漢字をどの形で書くかを決めるもの。清代に纏められた「謂はゆる康熙字典體」を手本として、そこから緩やかな變遷と學究で定まって來たものです。
一方で正かなづかひは、日本語をかなで書く時にどのかなで書くか決めるもの。平安に纏められた定家かなづかひと江戸に纏められた字音かなづかひを手本として、そこから緩やかな變遷と學究で定まって來たものです。
日本語は漢字かな混じり文で書きます。漢字をどの字で書くかは、正字を念頭に決めます。忘れたり、正字を使へない環境では、俗字で書けばよいのです。かなをどのかなで書くかは、正かなづかひを念頭に決めます。閒違へる事もございますし、正かなづかひを使へない環境もございますからそこでは俗のかなづかひで書けばよいのです。特に漢字は、習ひ覺えた新字体とは別に一字一字覺えねばなりませんので、覺えてゐないものは俗字で書くのが便利でせう。正かなづかひは體系的にかなり壓縮して覺えられますから、學べば結構早く使へるやうになりますよ。閒違へても鬼の首を獲らないやうにしませうね。
言ひ囘しは關係無い、どんな言ひ囘しでも書けます
この文章は正字正かなづかひで書いてありますが、謂はゆる文語體ではありません。正字正かなづかひは江戸から明治に日本中に廣まりました。そこから言文一致運動や共通語の流布、ヨーロッパ語の移入を經て昭和中期まで、日本語の言ひ囘しは大きく變はりましたが、正字正かなづかひは變はりませんでした。現代日本語を正字正かなづかひで書けますし、擬古文も書きたければ書けます。方言は書きづらいでせうが、文で書く傳統の少なかった爲で傳統が定まってゆけば書けるでせう。文で書く傳統の永い江戸辯や關西辯は書きやすい筈です。
何で發音通りに書かないの
程度の話ではありますが、現代かなづかいも發音通りではありません。東京方面の言葉は字から、音を省略したり變へたりしがちだと知られてゐます。「おとをしょうりゃくしたり」は「おとーしょーりゃkしたり」と言ひませんか。「たいいくかん」は「たいーっかん」と言ふのはよく擧げられる例です。助詞の「はへを」は「わえお」と言ひますよね。「を」は今でも「を」と言ふ地域も在るさうですよ。繰り返しますが程度の話ではあります。
表音文字に分類されるのに發音通りに書かないのは、英語やフランス語など閒々ある事です。英語に比べれば、正かなづかひは「ほぼ發音通りやんけ」と言ひたくなりますよ。
文を書くのは字で書くもので、音で喋るのとは違ふ都合も有り得ます。語の體系に沿ふと便利な事も在ります。「〜しよう」と「〜のやうに」と、「よう」の音が異なる意味だと知られる例も在ります。便利な事も不便な事も在る、のではありますまいか。私としては「結構發音通りだけどな…」と云ふ思ひも抱いてゐます。
「字音かなづかひ」は初めは忘れて大丈夫です
漢字の音をかなで表す時に、だう書くかを決めるのが「字音かなづかひ」です。「蝶々」を「てふてふ」と書く類いです。
が、漢字は漢字で書けばいいではありませんか。
字音かなづかひは今でも定說の少ない領野だと私は思ひます。興味が湧いた時に調べるとよいでせう。
正字は PC やスマホだと樂ちんです、但し妥協も必要
正字は PC やスマホでは入力環境 (IME; input method editor) の變換辭書が正字を覺えてくれます。ATOK には「文語」モードが有ります。他の IME でも正字正かなIMEプロジェクトなどの變換辭書を入れれば正字正かなづかひで入力できるやうになります。何よりの利點は、正字を IME が覺えてくれる事です。新字体でも、漢字が手書きでは怪しくて IME の變換に賴ってゐる方も多いのではありませんか。
但し文字コードの關係で、扱ひにくい漢字が在る事は今は受け入れねばなりません。主に IVS のせいです (正字で組版する技術 - c4se記:さっちゃんですよ☆)。その時には代はりに俗字を使ひます。
手書きでも全然いけます
私は手書きでも、覺えてゐる字は正字で書いてゐます。
讀む時は文脈で相當に讀めるのに對して、書くのには練習が要ります。ですが練習すれば覺えます。IME と云ふ字書も身近ですので (font が明朝體なのでだう書くか迷ふ時もございますが…)、練習しやすい時代ですよ。
「正」の根據は法律ではありません、硏究です
正字正かなづかひは何を根據に「正」と非「正」を決めるのでせうか。世には法律に類するもので正書法を決める言語も、フランス語など在ります。日本語の正書法は、內閣告示に在るやうな無いやうな曖昧な狀態です。世の殆どの言語の正書法はそんなものです。「正字正かなづかひ」と言ってゐる人は、內閣告示で示された新字体や現代かなづかいを、少なくとも敬遠してゐる訣です。敬遠する事くらいは當該の內閣告示でも許されてゐるのですから、許して欲しいものです。
正字正かなづかひには確かに手本があります。康熙字典や契沖さんや本居宣長さんの纏めた手本です。しかしこれを守り通すのが「正」ではありません。何が正であるかは硏究の對象で、議論の對象なのです。硏究の對象で議論の對象ではありますが、さう素早く大きく變はりはしないので、安定した手本を見て日々を暮らせます。法律で定まってゐて或る日急に大きく變はる事が在るとすれば、それは怖くありせんか。正字正かなづかひでは、何が正であるか「全員が」「完全には」一致してゐなくてよいのです。充分な期閒に充分な割合の人が充分に一致してゐればよいのです。言語とはそんなものではありませんか。
少數派なのは自覺してゐます
少數派は minority です。被差別側だと自覺してゐます。寛容に甘える側です。「minority がだう過ごすか」は minority である我々が考へます。majority の方々に於かれましては「minority にだう對するか」と云ふ現代では目にしやすい話題を參考にしていただければ幸いです。