c4se記:さっちゃんですよ☆

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自由意志の場所。

餌食はっけーん。(えじきっていわない)
小飼弾さん「我々は歯車にあらず
 http://app.blog.livedoor.jp/dankogai/tb.cgi/51004476
前回はトラックバック送り忘れた……。(←さっき張りなおしたよ)

前回の顛末は http://d.hatena.ne.jp/Kureduki_Maari/20080217 を参照。

歯車は、一度作られたら変わることは出来ない。自分が15歯の歯車で、お隣が30歯の歯車なら、お隣が1回転するごとに二回転する。壊れるか捨てられるかするまで、それは続く。それが歯車の役割であり、本物の歯車ほどそれを上手にこなす人間は存在しない。

同じシステムの一部であっても、人間は違う。入力があって出力があるという点では歯車と共通しているが、入力も出力も選択することが出来るという点において、歯車とは決定的に異なるのだ。

詰り自由意志ということ。物理では人間もクリティカルだが、「人間」の像は不明で選択可だ。

それは、人間はシステムであり、社会というシステムのコンポーネントであるが、自らに変更を加えることが出来るシステムだからなのだ。そして、自律能があるシステムがより大きなシステムに組み込まれるとき、そのシステムにとって一番「幸福」なのは、より大きなシステムを無視したり破壊したりすることよりも上手に組み込まれた状態なのである。

そして、人間というシステムは、「入力から規定される出力を得る」ことがクリティカルな分野に対して、本物の歯車を用意することを学んだ。人間は歯車(gear)ではない。歯車職人(gearsmith)なのである。歯車になるのはつまらないし非人間的だが、歯車を作るのは楽しいし人間的である。

〈歯車〉か〈歯車職人〉かは先に来たか後に来たかによると予想するが(いま確言は無理)。でも正確か複雑か、あるいは受動か能動かなら、先の前後説であってる。

そして今や、人間の聖域に思われて来た知の世界でも「歯車」が登場している。ギアボックスとしてのコンピューターと、ギアとしてのプログラムである。歯車から成る機械が多くの人間の仕事を置き換えたように、コンピューターとソフトウェアの組み合わせも、この瞬間も多くの人間を置き換えつつある。

「社会の歯車になりたくない」って?自分を買いかぶるのもいいかげんにしろ、君は本物の歯車ほどいい歯車にはなれないんだよ。悔しかったら毎分30万回転して歯を削ってみろ。本物の歯車には、現在のインド人や中国人だって歯が立たないのだ。

少しけなしが入りましたね……。でも賛成。
ともかく。

ここでの興味は「自由意志」。
物理は「自由意志」などという例外処理は許さないが、哲学にはある。むしろ哲学は自由意志の為というプラグマティズム道具主義、この場合)だと僕は主張する。自然から把疎された生命。そして精神の水準になると自然が環界と身体とに文節する。
これは根拠のないイメージではない。マーサ・エリザベス・ロジャ−ズの看護学では例えば、看護は外環境を体内とし、身体機構を体外とする視座として定位される。現代の医学では逆に身体は体内であり環境は体外である。
以後「哲学とはなにか」に書く、つまりこれから高速で考える。