c4se記:さっちゃんですよ☆

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人間・動物 文化人類学(課題) #memo

四年前に、課題として提出したレポート三編と、その纏めまで。なんだこれは。

ボノボなど〈動物〉と、〈人間〉のちがい

〈人間〉とはわたしたちが今、人であると認める物の総体であることはまちがいない。ではわれわれは、何によって其れを判別しえているのか。
幾つか挙げられる。〈観念〉を持ちえていること。「道具の使用」なども本質的にはこの能に依る。言葉をもつこと。これも前者の能に依ることは疑いもない。文化をもつこと。つまり文化を、ミームを考えても支障のない程それを独立なものとし、第二の自然とするまでに生活することである。これによって〈人間〉は無意識では、〈自然〉を恣意に持てるようになる。
これらは〈人間〉と〈無機物〉の違いと同値である。つまり〈自然〉に階梯を考えている。先ずは〈無機物〉――これは自然のもっとも原始な様態である。次に〈植物〉、生理の流れが自然の運動と同値になっている。〈動物〉は、内的な世界を保持するが、それが於いて有る場所は〈自然〉のみである。〈人間〉は観念を持ち、幻想に於いて有る。
こういう事でわたしは何が言いたいのか。人間は共同の幻想を持ちうるまでに生理から相対的に自由だといいたいのか。それもあるが、ここでは人間の段階では〈喩〉が可能だということである。自明だが〈喩〉の萌芽は無機物からある。或る分子が別の分子と反応してうごきを変化したのなら、それは〈喩〉の萌芽といえる。また石があり、これが風に吹かれて、他の地面と独立して動いたのなら、これは〈喩〉の萌芽だといってよい。だがここでは〈喩〉が世界に比する強度をもちうるほど強くはない。つまり〈喩〉は世界の厳密に全体と対応する構造をもつ、そこにまでは到達した段階を〈人間〉と呼びたいということだ。
もちろんわたしたちは普段、なんとなくしかこういった直感を用いてはいない。如何な胎児や死体であっても、見た目などのなんとなくから、それを人間であると判断するのみであるし、もちろんそれで正当なのだ。生活では或るカテゴリーは、類比的類似性のみで定まる。内包も外延も、一意に定まる必要はとんとないのだ。わたしたちがボノボなどを〈人間〉だと見做さない理由は、それが社会の人間に似ていないから、それを人間と認めることに習熟していないから、に過ぎないが、その習熟の大きさは容易ではない。

2008-10-16

人間は「 」するサルであるか

人間とは、それが「人間」と認められるものである、という定義はたれにとっても自明なことだと思われる。それでも「人間とは何か」と問う理由が考えられるならば、人はそこに、自らを種として区別する欲望をもっているからだ。〈アイデンティティ〉への欲望である。――機械と人間の差異を問うときは、自動と意志とがなにを異にしているのかを疑っている。サルと人間との差異が問われるときには、自然と自らとのちがいを人は求めている。この点でいえば、人間は「自覚」するサルであると言えるかもしれない。
生物の〈種〉を区別するとき一般には、その種が有性生殖ならば「不稔性」に依る。不稔性とは、或る一つの個体と別の個体とを掛け合わせて子が産まれるか、またその子に生殖能力が受け継がれるかということである。二つの個体が不稔であれば、子が出来ず、或いはできてもその子は子孫に受け継げない。そのときにこの二個体は別種であるといわれる。これとは別の区別もある――「棲み分け」によるものだ。或る個体群と別の個体群のつくりだす圏域(種社会)が重なり合わないときに、これらは別種である。そして「進化」とはこの圏域が分離することだという。
人間が他の生物種とくらべて特殊であるとするならば、その生活に於いて特殊な圏域をもたないことだ。どんな社会の領域であってもかならず世界全体に渡っているといってもおなじことだ。どんな植物でも必ずその〈無機物〉である部分をもっている。また動物もその〈植物〉や〈無機物〉の部分をもっている。おなじように人間もまた、〈動物〉〈植物〉〈無機物〉である部分を保持している。これらを「漸次」ではなく「段階」として区別すると、棲み分けは無機物では存在しない或いは余りに厳格に過ぎるし、植物・動物となるにつれその動く度合いと共に曖昧になり、人間では流動的知性で以て逆に自然を任意に分画するようになる。あるいみ無機物から螺旋をたどってメタフィジカルに一回転したと見做せる。「サル」を人間ではなく動物だとすれば、この違いは知性の完備性に帰せられる。つまり標語にすれば、人間は「時空を無視」するサルだと捉えられる。
少し、具体像だけ追ってみる。
狩猟採集民の社会の経済構造をざっくばらんに纏めると、〈分与〉の経済であるらしい。「平等」と言うのでは、概念が広すぎて捉えられない、もとい穿ち過ぎだとおもわれる。配分的正義(共同)と矯正的正義(対偶)の区別すらつけられていない。「富は低きに流れやがて雲の散るように霧の消えるように無くなるもの」と、俗っぽく言えばそうなるのかもしれない。一般に交換の型は、「互酬制」「収奪と再分配」「資本制」に分けられる。互酬制と云うのは平行な共同体を形作るもので、〈贈与〉の輪によって成り立っている。収奪と再分配とは絶対不平等を〈贈与〉と見せ掛けるもので、「国家」を形成する。資本制は最も〈贈与〉から遠いようにも思われているが、――実際、身体からの剰余価値あるいは、金融からの利子という〈贈与〉を原理としている。「分与」という言葉はここでは「互酬制」に言い替えられる。富は〈負債〉をゼロ0にするように贈与の輪に取り込まれる。ベッギングbeggingやポトラッチpotlatchも〈贈与の輪〉の論理に於いて理解される。「ベッギング」とは「物を乞う」ことであり、富の〈蓄積〉を阻害して円環をまもる。「ポトラッチ」とはその儘「贈与」の意味であり、異界への贈り物と相手への贈り物を二重化している。
牧畜民レンディーレの人生は、男は三つに、女は二つに分画されるらしい。男の人生は、1.) 結婚年齢前の子供(0~約20才)、2.) 結婚年齢後の青年(約20~30才)、3.) 結婚後の長老(約30~50才、一夫多妻)、の三期。女の人生は1.) 結婚前の子供(0~約15才)、2.) 結婚後(約15~50才、この間に何回か死別と再婚を繰り返す)、の二期である。人生を婚期居で腑分けするのは別に不思議でもなんでもない。〈血縁〉を基に時間を区分しているだけだからだ。だがわたしたちの現代からすれば、ただ誰と結婚しているか、離婚しているかで人を見ているにすぎない。どの〈家族〉に人がいるか、だ。――これらは既に〈血縁〉ではなく、対の集まりにすぎなくなっている。これを「歴史の終わり」といえば事は簡単にすんでしまうが、あきらかに誤りである。ただ対が、〈血縁〉という通り道を渡って歴史とは繋がらなくなっただけだ。レンディーレに於ける「結婚前の子供」とは、血縁の歴史に組み込まれておらず、ゆえに神聖の時空に触れてはいけない者達である。
問題は、だから彼等や私達を、「贈与するサル」であるとか「歴史を語るサル」とか言って済むか、それで人間に就いて如何ほどのことをのべうるのか、ということである。外延的には人間は、ただ世界中の人間を走査したリストを示せばよいだけだ。過去も未来も含めれば、技術的に不可能とはいえ、擬似有限なのだから可能ではあるはずだ。段階として捉える場合、内包的には人間は、〈自然〉から異和をもって遅延して来、自らを自分の根拠としうるまでに至った錯合体としてとらえられなければならない。これは或る人を持ってきて、彼が人間かそうでないかを判別する役にはまったくたたないが、誰もが「人間とはなにか」を追い詰めた時におちいらざるを得ない点である。
逆に、サルとは如何なる段階か、という問いは無意味でしかない。人間から見ればサルは〈動物〉という段階にほかならないからだ。「人間は理性をもったサル」「遊ぶサル」「経済するサル」「話すサル」「労働するサル」「共食するサル」「踊るサル」「音楽するサル」などと、恣意に無限に想像力のままに出てくる定義をもてあそんでも、或る特定の論議を強化するのに役立つだけだ。そして、サルは人間であるかないかの議論の呼び水となるしかない。「自覚するサル」「時空を無視するサル」という先に上げた“定義”も、同じぐらい役に立たない。
これらの“定義”にすこしでも意味を見出すとすれば、原始のころから「人間」というものを他の動物たちなどから差別しようとしてきた厖大な歴史に於いてである。もちろんこの“差別”は社会からすれば当然のものだ。それでも――と敢えて言わねばならないが――それでも人は自然と交通をもたなければ成り立たないと考えられてきた。2010年代も近い現代を特徴づける点は、圧倒的な不平等によりこの「自然」がなくなってしまっていることだ。価値の基準を見定めえなくなっているということでもある。自然というのを、如何なる立場であってもそれを掘り下げていけば突き当たる普遍であるとすれば、それが見えないのはつまり価値に隔壁ができていると言えばイメージはつかみやすいか。この事態を認識する知は未だ存在していないし、対処する倫理もみえていない。
人や社会がまえよりも劣ったということではけっしてない。人も、社会も、「よりよく進歩する」ものでも「よりわるく退歩する」ものでもないからだ。わたしは現代の変化は、1980年代後半に始まり未だつづいている一つの流れだとおもえる。現代社会の諸問題、に言及するには、まずは共同とはいかなるものか、についてなにごとかを述べなければならない。そして共同と個体は位相のちがうものである。

2008-12-31

参考文献


世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)


愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ)

愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ)


日本語のゆくえ

日本語のゆくえ


1. アフリカの狩猟採集民、牧畜民、焼畑農耕民のうちから一つを選択し、その特質を1) 生態系2) 社会系3)文化系の三つの視角から統合的に説明せよ。(焼畑農耕民 生態 - 社会 - 文化系)

そもそも、と云う所から始めねばならない。そもそも――人の生活をとして分けるとは? ここでいう「生活」とは、もちろん共同的な生活を言う。そしてここで想定されている系の分離は、自然と幻想に挟まれて、その間の度合いをわけてみたい訳だ。これをどうこうしてみたくば、丁度現代の自分に当てはめて考えればいい。

  1. 生態系――これは各人の生理に一番近いところを言っている。朝家で起きて夜家で寝る。平均三回物を食べる。といった、一日・一週間・一年の繰り返す日常の要素。
  2. 社会系――わたしの感覚からは、これは一番わかりにくい用語だ。共同体内の人々、或いは共同体同士の繋がりの形態。「家族」がある、労働の共同体がある、など。
  3. 文化系――「文化」の名で普通いわれるものがここに近似的に入る。文学、宗教、音楽の種々。

これらが〈度合い〉として成り立つ根拠を考えてみる。人間は度合いの錯合として成り立っている。共同体が成り立つ一番の根拠は、様々な度合いから成っている〈類〉を、単一の「共同」として捉えなおす経路に於いてだ。生態 - 社会 - 文化系は、この捉えなおされた後の共同を腑分けしたものだ。これは「常識」的にはあまり考えられない観点である。この常識的でない論点が学会では広く流通していることには驚きを感ずるが、その腑分けの動機を思うに、単一の共同性を複合として見ようということだらふ。現実を完全にシュミレート出来た者はいないという点で、世界は複雑である。だがその複雑さは、博覧会的な羅列によって被覆できるものではない。博覧会の羅列は、操作的無限である故に、必ず終わりはこない。0, 1, 2, ...と自然数を数え上げたところで、可算無限に到達することはない。本質論だって、思考は時間に沿うのだから、同じではないかというのはちがった批判だ。本質は或る世界を作り出す――その世界は、或る一つとしてオープンに完結している。また本質論は或る程度の近似を以て次に進みうる。博覧会羅列の動力は任意、本質論の動力は必然。量子力学や相対論的計算をほぼ行わなくとも、ニュートン力学で充分火星へ行けるのと同じだ。
その意味で言って、概念が錯合体であるというのは、基底の自然が視野の位相多様体であるからで、世界が複雑であるからではない。
〈農耕/牧畜〉と〈狩猟採取〉との間には、大きな差異があったにちがいない。農耕は、微小ではあれ、或る継続をもとにする。流通ではなく蓄積、転回ではなく継続。たとえ集約intensiveではなく、粗放extensiveであったとしても、いくらかは。
でも粗放と集約との違いの方がずっと大きい。それぞれをおおざっぱに纏めると――、粗放:流れゆく内に於いての部分的な継続、集約:連綿とした継続。
わかりやすく焼け畑農耕について経過を述べる。まずは枯れ木や枯れ枝を作るところからはじまる。地域によって異なるが、木を切り倒して耕地にする、あるいは枝を広く集めてくる。乾季の内に乾燥した木枝を、雨季の直前に火を入れて、灰(肥料)にする。そこに雨季になって作付けをする。集約intensive農業ともっとも違うのは、この農地が固定していないことだ。多種の作物を植える、輪作するなどの措置は取られるが、強制して肥料を注入する田畑とちがい、数年で放棄される。ただし熱帯雨林なので、かなり急速に森へ回復する。自然林の多様性には焼け畑の多種では敵わないということなのかもしれない。こうした循環は、急激に焼け畑を拡げない限り永続して続きうる。ただ土地から利潤を得るというよりも、人間と土地とを労力が循環するという考えの方が正しいように思われる。
愚にもつかない感想を抱くならば、エネルギーの保存則は、歴史の内在性と外在性との間で成り立っているのかもしれない。

〈性差〉について。

原始には性差ははっきりとあったようだ。
焼け畑農耕民では、農耕――女性、その他狩猟交易など――男性、とはっきりしている。狩猟採集民・牧畜民とも、区分がはっきりとしているのは同じである。
性別の起源はわたしにはわからない。「異性生殖」ということでいえば、大腸菌のプラスミド接合まで遡れるのかもしれない。すくなくともコアセルベートに性別があるとは言わせない(コアセルベートcoacervateとは溶液中にて区切られた境界をもつ液滴で、生命の起源と考える説がある)。
性別と性差別とはべつだ。性差とは単に、動物の段階から観念へ受け継がれた〈異性愛の視座〉を基にしている。性差別とは、文明がもたらしたものだ。文明とはなにかというのはわからない。だがそれは、外在な歴史・その進化という考えを産み出した。進化――。神聖は、超越と穢れとに分離する。女性の「神聖」は穢れへと分類された。男性は「神聖」とは距離をもっていたために、ただ社会として残った。文明の増大とともに現代では、この性区分はあいまいになり、男も女も幾分かの穢れを負うようになった。その度合いは分野によってちがう。
女性が神聖の近かったのは、「出産」に関わっているからだ。しかし、


子供を産めることだけが唯一残された女性の証しなら、
それもいずれは試験管がやってくれる。 ――ウィッチャビン(SP-2の隠れ支持者であるタイの富豪)
平沢進「SP-2」

まさにその通り。
達成された暁には、性差は因習と内在性とに分岐する。因習で男女をわけるのは「自由」だ。

2. 文化の多様性を一つの核とする文化人類学的視点が、現代医学、現代看護学のあり方に対して有する意義について自由に論ぜよ。


確かにSP-2達は親切でやさしく、様々な世話を焼いてくれる。だが、その行為には湿度がなく、最大限に接近しながら常に相手を解放しているという特殊な感覚を生み出す。それは“ウソの親切”なのではなく、“意味を要求しない親切”なのだ。そこにも何故か、帰還の感覚がある。
平沢進『SP-2』「Nurse Cafe物語」


「あなたに悩みがあるなら、必ず私達に話してください。私達は悩みの原因には触れません。でも、あなたのナースになりたいのです」
同上

文化人類学的視点」が現代でなにか直接役に立つのだとしたら、〈文明〉は何を成したか、という点になる。他には〈文化〉はなにを成したか、というのもある。


この世界はおたがいにめぐりあう人間や、めぐりあわないけれどどっしりとひとつの場所に存在している山や、おたがいに呼びかけあう動物や、私たちのまだよく知らないやり方で、やっぱりおたがいを呼びかけあっている植物や、人間や動物や植物の中に融け込むことで大きなサイクルで世界を流動している鉱物など、世界をつくっているすべてのものの統一の中で生きています。
そこでは人間は自然と対立する存在ではなく、世界の一部として、自然と深く関わりながら生きています。私たちの世界に科学があるように、「存在論的世界」を生きる人々の間には呪術があります。呪術は、動物や植物や鉱物に人間の生命力が働きかけることによって、それらの自然物がかえって人間に協力して働く状態を生みだそうとしてきました。動物も、植物も、人間とともにこの世界をかたちづくっているのです。
中沢新一・波多野一郎『イカの哲学』

意味(原因)とは何であろうか? 厳密にただ科学的なだけの場合を除けば、原因とは要求されたもの、不安を埋めるものだ。しかしそれが? それがなにか? 原因が一時の安心以外の役に立たないとうのは、それが任意のもので有り得るということにて示される。ある原因が名指された、――だがもしあの時道を右ではなく左に曲がっていれば、要求された原因は別のものであったろう。その点、自然災害と変わりはない、偶然なのだ。意味を求める者は、待たない。
人間の段階が喩を可能にしたというのは、異形の範疇同士を結べるようになったという事でもある。人間、動物、植物、果ては鉱物まで。鉱物にまで実存が認められると云うこと。現代では、一部の人間にしか実存を認めぬというのに。


無意識の秘密を語ったのがジークムント・フロイトさんなのなら、彼男に終焉へ向かわせる力に就いても語ってもらうのがいいかもしれない。精神分析に於ける〈治療〉とは何かと云う問いは、医術の治療とはまったくべつの性質をもっている。というのも、外科 – 内科 – 精神科の医術では〈病〉を取り除くことがただ治療の目的なのだけれども、精神分析にとっては〈正常〉もまた〈病〉から成り立っている、というよりは寧ろ、精神は〈抑圧〉にはじまる〈病〉を基にしている。だとしたら多分、精神の正常は、どの抑圧が〈病〉でまたどれが〈正常〉かを選り分けることにある。病者と精神分析医との対の関係で〈病〉と見做された抑圧が精神の異常となり、治療の対象になる。この〈治療〉というのは、明らかにすること――症状形成の構造、抑圧の理由――必然を、対の必然を自身へ返すこと。そして必然は終点を見定めて、一気呵成に駆け付ける。つまり、意識とは抑圧なのだから精神分析の〈治療〉は終わらないはずなのに、この行程は唐突に終わってしまう。意識は治療を抑圧にしてゆく。
拙『法・存在倫理Ⅰ

病とは? 健康とは? 最終的にはこれは、範疇を分けるだけなのだから、相互に繋がりが取りうる。
病は死に至る。しかし健康もまた寿命で死に至る。ならば、治療は終わらない、はずだ。でも人生の幾分かは、「健康」の区分に入る。この根拠はなにか? ――おそらくは、「耐えられる」かどうかだ。同じ経済先進国でも日本とアメリカとでは区分の基準が違う。片方にしか存在しない病すらある。記憶なのでたしかではないが、アメリカには「更年期障害」は存在しないとか(日本では大きな話題だが)。ジャック・ラカン(フランスの精神分析家)は「日本人には精神分析が必要ない」とまで言ったらしい(まぁヨーロッパとは別の意味で必要だろう)。


内田 (引用略)
こういうふうに解離症状を呈することによって、ある種の問題状況を回避するというのは、日本人に特有の症例なんでしょうか?
春日 たぶんアメリカも似たような感じなんじゃないでしょうか。中国やフランスだと、ちょっと違うと思いますが。だって、中国とフランスでは、人格障害でもボーダーライン(引用注:境界性人格障害はないっていいますから。
内田 ボーダーラインがないって、どういうことですか?
春日 だって、みんながそうなんですから(笑)。「多少変わってるね」くらいにしか思われない。
内田樹春日武彦『健全な身体に狂気は宿る』

色ですら。今の日本では虹を赤橙黄緑青藍紫の七色にわけるが、この外側と内側(確かではないが、「赤橙紫」と「黄緑青藍」のように)の二色に分ける文化もあるそうだ(丸山圭三郎の紹介に依る、書名は失念した)。また日本では赤は暖色、青は寒色だが、暑い地域にいくと、逆になったりするらしい。青はカンカンと照りつける太陽の青空だからだ。赤は朝焼け夕日で、涼しい。
これらはデータベースだ。ここから、未だここに無い未来を予測しなければ。医の未来? 当然、医などなくなってしまえるなら其のほうがいいに決まっているのだが。

2009-02-20

参考・引用文献

初期心的現象の世界―理解のおくれの本質を考える (洋泉社MC新書)

初期心的現象の世界―理解のおくれの本質を考える (洋泉社MC新書)


中世の非人と遊女 (講談社学術文庫)

中世の非人と遊女 (講談社学術文庫)


SP-2

SP-2


イカの哲学 (集英社新書 0430)

イカの哲学 (集英社新書 0430)


健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体 (角川Oneテーマ21)

健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体 (角川Oneテーマ21)


拙 「法・存在倫理Ⅰ」 *Lotus Gate V2, 2008

纏め

いつもの如く、自分の興味とは少しずれたことを書く、というのは辛いものがある。そして悪い癖で、いつも自分の興味に回収してしまって、つまらないことを書く。
現代を纏めるというのは、自分がそこに住んでいるだけに相応の困難をともなってくる。描像にほぼ完璧な自己の像を組み込まない限りは、分析の手に満足はやってこない。このことは勿論他の社会構造を論じる時もおなじなのだが、悪い癖でそこまでやらずに落ち着けてしまう。