人類や人類のやうなものが存續すると云ふ意味での後世についての倫理的な意味を、現代的な宇宙觀の下で、形而上の對論を持ち出さずに學問的に論じた書物は私の記憶の中でもこれが初めてだ。後世について論じた書物はごまんと在るが、現代的でない宇宙觀や形而上のものを持ち出すか、善などの未定義語や人生訓で濟ませるか、既知のものとしてしか扱はないかになってしまふ。著者は、自分はそう遠くない內に死ぬ、そしてそれが恐ろしい、しかし人類のやうな集合體は普通の想像を越える期閒は續くと云ふ、現代的な時閒觀念に於いて自然な推測が、倫理學的に、思ったより重要な信念であると云ふ事を背理法的に示してゐる。この本は倫理學者が倫理學の範疇で倫理學者宛てに書いた論述である。だから倫理學を想定しなければ、何を今更當たり前の事をと思ふだらう。しかし人口に膾炙しつつある現代的な宇宙觀を誤魔化さずそのまま信ずる限りでは、倫理學のみが可能な宗敎で、つまり行爲の意義や人生觀の根據なのだと云ふ事を私は事實だと思ふ。
荻野恕三郎「光明主義批判―葆光の哲學」1997/3/31
blog では讀んだ本を纏めた事を報告するだけであって、內容は書かない事にしてゐる。纏めは Scrapbox を、本は本を見る事。本は少なくとも私の手元に有る。
眞理とは明らかな事、明らかにされた事である、この自明と思はれる考へは光で譬喩へられる。だが光ではない、かといってそれと對立もしない考へを述べようと書いてあり、百万遍知恩寺での古本市でこの本を見掛け、世の中には變はった事をやる人がゐるなぁと思って買った。ぼんやりとした考へをぼんやりと擴げたいと云ふ動機は、中途半端に中途半端である事ができるか、徹底して中途半端であればそれは徹底してゐて中途半端でなく、徹底しなければ中途半端でないところを殘してゐるのだ、と云ふ事を昔から考へてゐた。明晰←→乖離と云ふ對とそれに附隨する圖式が私の最新の解だが、明晰の側に肩入れし過ぎてゐると思ふ。
見田宗介「社會學入門: 人閒と社會の未來」2006/4/20
池見澄隆「慚愧の精神史―「もうひとつの恥」の構造と展開」2004/9/20
纏めた本を blog に載せると云ふ手順を踏んでゐると、入れ込んでゐる書物は長く纏め續けて blog に載らず、纏める氣になった中ではあってもそれ程でもない本ばかりさっさと纏め終へ blog に載る事になる。さう云ふものだと思ふ事にする。
かう云った自分にしか需要の無ささうな本を見附けるのが大型の古書店や古本市の醍醐味だ。慚愧と云ふ言葉は、私は罪惡感を指す語くらいに思ってゐた。その言葉の意義を奇妙な遣り方で廣げやうとしてゐるこの本に異常を感じて購入した。自分にしか需要の無ささうな本は大抵安いと云ふ事情も有る。冥とか葆光とかに考へを巡らせたい今の氣持ちに合ったのだと、この本を流し讀んだ今では思ってゐる。
Bayard Pierre「讀んでゐない本について堂々と語る方法」2007/1/11
書店で見掛けるも敬遠してゐる本はやはり在り、この本もそれであった。或る日立ち讀む氣に何故かなり、思ってゐたのと違ひ、「本を完全に讀んだ」と云ふ馬鹿馬鹿しい觀念の外で張られる空閒を論じてゐる樣に見え、驚き急に、面白さうな本だと感じたのだった。
この本の記號に沿へば、私の評價は「流○」(流し讀み・良いと思った) である。私が言ふところの「作者讀み」に就いてしか論じてゐないが、三種の圖書館と三種の書物と云ふ有用な槪念を提示してくれたし、おもしろい book guide でもあった。いずれ「流忘○」になるだらうが、纏め見返す作業はこの分解作用に少しは抗するだらうか。