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文学論 序抄

以下、宣伝ゆえ、ここへの掲載を行う。


文学論 序抄
井上幸亨郎

(これは宣伝記事です。)
 わたしがこのような題名でものを書こうとするには理由がある。文芸批評に手法を確立したいのだ。「言語」について書こうとするのはよい。だが纏まった連載をもたないことには継続すらできない。
 わたしは〈惰性〉におおきな価値をおいている。それは〈才能〉を信じていないことと等価だ。初めからの〈才能〉がありうるとすれば、〈才能〉を持つ者はなにもせずとも事をうまく成し、持たぬ者はなにをどういくらあがいても何も成しえない。これはまったく信じられない。わたしの経験からいえば、どのような者もやらなければ何を成すかはわからない、逆にどういった者だろうと成し続ければその執念によって何かを遂げてしまうものなのだ。人間は外からは何を成すか、こちらのわからぬようになっている。自分にもこれは適用できる。他人の言葉を借りるならば、十年間毎日あることをやりつづければかならず一人前にはなる、ということになる。私に言わせれば、〈才能〉が問題になるのは、この一人前になった後である。天才と呼びうるかどうかがそこで決められる。
 生活とは反復である――を一つの公準としている。「反復」の対義語は「面白いこと」だ。生活の反復に耐えている無名の幾多の人々をこそ畏れよ。文学というのは虚業だ。これと比べれば、金銭を右へ左へ動かすだけであるファンドのほうがよっぽど「実業」だとおもえる。それは、文学の由来が〈自己慰安〉だからだ。類の生活に嫌気がさして自己にひきこもるようになったときに、文学の芽は兆す。いわば、喋れないから書くのだ。だが籠もるだけでは文学は産まれない。この孤独にすら耐え切れなかった馬鹿者だけが書くのだ。惰性にて生活をしている者達は、この孤独に耐え続けている。このことを忘れたら、ただ文学者は感性的に自殺をするほかはなくなってしまう。

 此れを達成するには洞うやったら良いか判る? 其れは恐らく、自分も含めて裏切った世界を俯瞰風景を以て無化する事、或いは生活の中で中立を保ち徹底的に沈降して和解を図る事、二つに一つだ。死か生か、洞ちらにしろ自分は観念的に自殺せねばならない。実はもう一つ有って、思想を其の入り口の外に留まって忘れて仕舞い、生活に埋没する振りをして評論家を気取る事。此の人達は“普通”に生きる事が出来る代わりに一生“私”探しゲームに明け暮れる事に成る。幸福に成りたければ今直ぐ思想は忘れた方が好い。

 自分が昔書いた文章だ。だがこれは間違いだ。孤独と生活のどちらの波もうけつづけること。この新たな持続、惰性に耐えつづけなければならない。それは人生の悲喜劇だが。

     *

 *Lotus GateにはV2から、「文学論」の連載を井上幸亨郎名義でおこなう。なぜV1からやらぬのかといえば、V1の目標は発刊すること、質はV2からと決めているからだ。
 *Lotus GateのV1は、2009年五月十日(今年)の文学フリマに出品する。無料配布である。自分が出す原稿はできあがっているが(「試行 批評論」)、他の方からはまだ集めている途中なので、何頁になるかはちとわからない。
http://c4se.sakura.ne.jp/fu_index.htmlhttp://c4se.tk/fu_lg.html