c4se記:さっちゃんですよ☆

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仮想粒子「タツロン」 - 超科学の構成元素

内田樹(Uchida Tatsuru)の名前からとった言葉のよう。「タツロン」。いいね、響きが。


仮想粒子タツロン
 http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51133786.html

パウリは、ただ「未知の粒子が存在する」と言ったわけではない。その粒子のスピンが1/2であること、質量はほとんどないこともきちんと指摘しているのだ。湯川と中間子、ディラック反粒子....例外は、ないはず(私は科学者ではないので断定は避けたが、科学者だとしたら「はず」もはつけない「はず」)。
未確認物体を仮定する場合、むしろその存在を仮定したことで、その物体の「未知度」は下がるのである。仮定しておけば、次に目の前に現れたときに「あ、あいつだ!」とすぐにわかるのだから。
だから、未知の物体をたとえば米空軍のようにUFO = Unidentified Flying Object と呼ぶというのであればわかる。少なくとも「飛んでいる」という属性はわかる。地上を這ったり海中に潜んでいたりするわけではなない。
しかし「超能力」や「霊能力」は、それを持ち出してもちっともこの世(Universe)も頭の中(Entoverse)も単純にならない。オッカムのカミソリがオッカムのナタになってしまう。

原文を読んでいないので断定はできないが、少なくとも内田先生のentryを読んだ限りでは、「超能力」や「霊能力」を仮定することで、元の文章はおろか「超能力」や「霊能力」が一体何を指すのかまるでわからない。
今後、こういう「大盤振る舞い」された仮定のことを、タツロン(tatsuron)と呼ぶことにしよう。
....と書いて、一つタツロンの明らかな効用に思い立った。タツロンが存在することにしておけば、文系の学者の雇用力がずっと大きくなる。これは見過ごせない。
というわけで、内田先生のために、私にとってはこれまたタツロンの一つである「神」に祈ることにしよう。タツロンがフロギストンやエーテルと同じ運命をたどらないことを。

よい皮肉です。
寄せられたコメントの間違いを指摘できたら、最早あなたは「超科学」と対峙する者として、一流でしょう。


と、いうことで、コメント欄へコメントしてみる。

超能力がもし物理現象として存在するなら、現段階の我々の科学は
「それを仮定すれば話が単純になる」なんて段階ではなくて、
ギリシャ時代にアトムを想像しているようなレベルなんだから。
ニュートリノの話は例にならない。
Posted by 403 at 2008年11月04日 21:39

科学は「説明を一通りにつける」事を目的とする。出来るかどうかではない、そうしようとするのだ。
理論の時間の流れを一つに定めるといってもいい。
ギリシャ時代のアトムは科学ではなく、哲学だ。そして、哲学は、対象を説明する行為ではない。本質に於いて語るものだ。
だから「ギリシャ時代のアトム」の話は「物理現象への仮定」の例にならない。
「超能力」を仮定しても、何も説明することはできない。

「超能力」や「霊能力」なんてのは、
おそらくはシュレディンガー方程式の、
「プサイは一体何なのか?」的なノリだと思いますが・・・


さておき、どちらも”暫定的”な仮定を置くとこまでは同じで、
あとは、「厳密さ」「単純化」が争点なのでしょう。
でも「厳密さ」は、"論"か"説"か"予想"かという、
程度問題で扱う方が無難であるような気もするし、
「単純化」だって、"ひも"だとかの統一理論で、
相対論より単純になったわけでもない。


理論がより簡潔で美しいものに収束するかどうかは、
まさしく神のみぞ知る所で、
数多の論の中でたまたま美しいのが残っただけ・・というのが、
よりロマンの無い回答でしょう。
Posted by susu at 2008年11月04日 03:14

シュレディンガー方程式は、それが極めて正しい解をはじき出すことが、誰の目にも明らかだった。誰でもシュレディンガー方程式により、量子現象を記述したり予測を当てることができた。
だから「プサイは一体何なのか?」と考えることに意味があった。
「超能力」や「霊能力」は、現象を説明する力を失わせる。これらは「”暫定的”な仮定」ではなく、厳密さ(普遍性)はゼロでいいという担保にしかならない。
理論がより簡潔で美しいものに収束するかどうかは、議論の価値もない話だ。
オッカムの剃刀」とは、「仮定は必要最低限であるべきだ」という要請である。これを破っていいのならば、全事象を無限に「仮定(公理)」としてゆけばよいことになる。歯止めが無くなるからだ。
また「厳密さ」とは、誰でもその理論で対象を記述できるし(数学論理がこれを担保する)、実験の予測を誰でも精密にできる、ということだ。前者は理論の由来(パラダイム生成)を、後者は反証の可能性を示す。
「超能力」や「霊能力」が科学的な"論"でも"説"でも"予想"でもないというのは、その理論の生成に、なんの必然性もないからである。


>科学において「見えないもの」を仮定するときには、「もし見え
>たとしたら、どんな風に見えるか」を厳密に規定するのが自然科
>学である。
話が微妙にすりかわってませんか?


>>手持ちの度量衡で考量できないもの
をどうやって厳密に規定するんですか?
Posted by TNA at 2008年11月03日 21:32

なにがどうすりかわっていますか?
「手持ちの度量衡で考量できないもの」を数学論理の必然に沿って厳密に規定(説明)してゆくのが科学である。
「厳密に」というのは、誰でもそれを一通りに理解して、自ら同じく記述できるという、その普遍性の言明である。
哲学との違いは、哲学は比喩の全能性に沿って論理を結晶させることだ。また普遍性は表現型の流通時空によって担保される。また「自分に当て嵌まらない事は結論しない」という態度が哲学の厳密さの担保である。


――ということで、ついでに科学論もやった。まだまだ考えることはある。


ネタ元記事:
人を見る目
 http://blog.tatsuru.com/2008/11/03_1337.php
全然関係のない話が載っている。
直感の話。「超能力」との関係は、著者の、明確な間違いである。
この人には何か意味あることを言う力はないな、時熟する器量はないな」というのが私の見込みである、ちなみに。