「ケータイ小説」と「Perfume」の流通の根拠は双方とも同じなのだろう。
橘榛名さんはPerfumeを好みケータイ小説を嫌うが、これは故あることであり、それはこの二つが異なるからではなく、どちらも同じ冗長さ、陳腐さ、軽妙さにも拘わらず、そしてPerfumeのそれらの点に魅かれているにもかかわらず流通とは違う観点でこの特徴を捉えるがために、時代を捉えるという観点を捨てているからだ。掛けられた時間からすればPerfumeの一曲はケータイ小説一冊々々の比ではない。中田ヤスタカさんはずっと作曲の活動をしてきたのだ。〈書く〉ということに没入してはいないケータイ作家には修行が足らないといわねばなるまい。だが時代がこれらに割く時間は同質なのである。このちがいの根拠は個体と共同の差異に端している。個体の生命から時代の幻想までへは千里の径程を飛躍しなければならないのだ。つまり個人の幻想のなかで如何にことなる道を歩もうとも、時代に包含されるということはありうる。
資質以外の任意の精神によって逃れうるものを〈時代の水準〉と言いはしないのだ。
Perfume GAME
Chaco 天使がくれたもの