c4se記:さっちゃんですよ☆

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雜=多樣性と云ふ概念の假説

雜と云ふ在り方の概念を重視出來るのではないかと云ふ考へを育ててゐる。はっきりと際立った概念ではないが、雜をどう定めるのが好いかと云ふ假説は持って有り、細分を續けても常に更に細分出來る狀態である在り方を雜と名附けやうとしてゐる。私は今 programmer として在り、いわく定め難い team と云ふ集まりで過ごしてゐる。此う云った生活に適合してゆく事と、私が古く育んだ考へとを繋げる事が出來ず、其の成り行きでどうしたら眞である事が出來るかを長く考へ、長く考へ過ぎてゐるが、其所で眞と主體は近い形をしてゐると考へるやうに成った (發言の超越論的な根拠)。其の反対側である、日々に適合すると云ふ側から雜と云ふ概念を考へればどこかで衝突するのではないかと思ってゐる。

假説としては二つが有る。

  • 多樣性と云ふ概念を重視出來るのではなからうか。
  • 其の多樣性と云ふ概念は上記で定まる雜と云ふ語で名附けるのが有効ではないか。

雜を上の樣に定める事は、言葉や認識や行為に依っては汲み尽くせない實在を考へる事に相當する。しかし體驗に依れば雜には過去に於ける蓄財が要り未來で蓄財を汲み出すと云ふ前提が要る。此れは雜が感覺に依って汲み尽くされないものではあるがしかし感覺されるものである、或いは感覺されるものでもあるからだと思ふ。蓄財が尽きれば雜は在り方から去って了ふ。

名實の組みを建てるならば、名を先に取り名 (普遍) が在れば對應する實が實在する、不當な名は名同士の關係で定まると云ふ考へ (礼) と、實を先に取り實 (個物) に適切な名を附ける、不當な名は實が無い事で定まると云ふ考へ (生得) が在る。雜はどちらでもない。雜は不當な名の不當さが一意である事を更に細分する。名が名である事と實が實である事は名實に於いては一意であり、雜は其の一意である事を更に細分する。此の細分は手續きであり終はらない手續きであるから過ぎゆくものとしての時間である。そこで雜は蓄財と汲み尽くしと云ふ形で瞬間であり、細分と云ふ形で時間である。

此の記事や考へそのものが、より基になる根拠が無いと云ふ事で雜であるが、日常の考へ方を素直に氣遣ひ延ばしてゆくと云ふ事ではストア派風ではある。此の素直と云ふ概念は、似てゐるものを似てゐるとし似てゐないものを似てゐないとすると云ふ風に定まると考へてゐた事が有った。今は好く解らない。