或る親しくはないがTwitterで近しい者のblogを読んで対抗したものだか、なるべく一般的に考へた。
.。o(痛みなどの体感が他人に伝わらぬと云ふならば言葉もまったく同じではないか。もう一点有る。自分の痛みは自分に伝わるとでもぬかすのか。馬鹿馬鹿しい。)
— さっちゃんと17人のももんが♬♪♡ (@ne_sachirou) July 26, 2014
.。o(わたしには滅多に無いが、他人の痛みがあたかも自分が感じたやうにおもわれる事もあるし、自分の感じる痛みに気づかないこともある。また同時に複数の体感をすることもある。身体の感覚や行為と言葉の感覚や行為には、断絶と連続の差異が有るん過ぎない。)
— さっちゃんと17人のももんが♬♪♡ (@ne_sachirou) July 26, 2014
.。o(言葉の方が身体よりも直接でありうる。その逆転を許すのは人間のつくりあげた世界の矛盾である。本来と非本来の構成する矛盾である。)
— さっちゃんと17人のももんが♬♪♡ (@ne_sachirou) July 26, 2014
.。oO(この負荷、体験が伝わらない、おまえにはわからないだらうと云ふのは、その実感が伝わらないのではない。その孤独の構造がわからないのだ。)
— さっちゃんと17人のももんが♬♪♡ (@ne_sachirou) July 27, 2014
孤独の構造がわからないと云ふよりは、孤独が構造としてもってゐる拒絶によって、わかると云ふことが反転して了ふ。この孤独は、人間の個人的と云ふことの、そして社会的と云ふことの本質である。