c4se記:さっちゃんですよ☆

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人間は、がんらい個体的なものだ #memo

公開でやりとりされた手紙なので、こういう文体になっている。

1

人間は、がんらい個体的なものだ。個体としての人間が、他とかかわろうとする関係性が、概念のうちで抽象化し、独立自在するようになったものが、共同体と謂われる。此の過程を、観念の外化とよぼうが疎外と呼ぼうがかまわないことだが、人間は関係の必然性として、みずからの存在に反する領野をつくりだしてしまうと云うことは、たしかだ。
わたしが怒りをかくせないのは、此の者が根本的な踏みはずしを厭うていないからだ。此の者は倫理とは規制であると信じて疑わないのだが、人間とは、ほうっておいても自らと他人を拒絶する存在であって、其んなものは自然にすぎない。倫理というものは、それらを前提とした自由について論じなければならないのだ。規制の仮象をもって、現在から未来へ渡しをつけられないでいる多くの不安な目につけ込み、脅しをかけるものは、おそらくはしづかに無視されるだけなのだが、そんな幽霊に耳元でささやかれるほど、寝覚めのわるいことはない。だいたい此の者は、いったいいつからクラスの代表を気取って、他人に拒絶を強要できる権利をえたのかと、突っ込みをいれるべきなのだ。そんな権利は、だれにだって有りはしない。みなそれぞれが、孤独に拒絶し、許容できるだけだ。
みずからの属する共同体にかんする自覚というものは、素朴だが、ほんとうはかなり高度な意識だ。目の前にはとらえられず、架空の現実として存在する共同体を、確としてつかまえるためには、不断の緊張と、抽象的な洞察が必要となる。われわれは、ふだん生活しながら、此ういった緊張を強いられているのである。此の習俗に疲れたときに、多くの誤謬のはいり込む隙があたえられる。「弛んでいるという自覚が内部からもチラホラ芽生え始めた」などとほざくのは百万の侮辱である。そんな気色のわるいものといっしょにしてくれるな。此の者も、おなじ誤謬の被害者なのかもしれないが、じかに喧嘩をふっかけられた以上、容赦してやるいわれはない。「弛んでいる」とか「締まっている」とかは、個人の意識であって、共同として規制を強めることにはなんら意味はない。いくら強固に「締まっている」組織であっても、外圧や内圧によって締めつけに自壊していくようではたまらない。断じて平衡(バランス)の問題ではないのだ。共同には内圧の関係や、外圧の規制はありえても、「弛んでいる」だの「締まっている」だのといった、意識の問題は存在しない。ただ、自身の地道な研鑽につかれはて、共同性へみずからのコントロールを短絡し、投影したときに、なにか〈共同の意識〉のような虚妄が浮かびあがる。それは暗闇に降る甘言のように、だれの心にもいつかは浮かぶものであるが、これは甘露ではなく致死性の毒だ。Aがいう〈共同の意識〉とBのいう〈共同の意識〉とは、必然、相入れぬものにしかならぬ。そんなものを、わずかでも普遍的だと公言してもらっては困るのだ。
赤の他人に親切にしてやるいわれは、たしかに論理的にも倫理的にもまるでないが、その程度のことは、わざわざ貴様にいわれるまでもない。生活の真理だ。むろん、親切しないいわれもまるでない。モノを寄越せといわれて、一定の親和を感じれば黙ってわたしてやればいいし、信用ならぬとおもえば拒否をするなり、借りを返せよと留保をつけてわたすなりすればすむのだ。怠慢の責任が個人にあるのなら、親切の責任も個人にある。其の結果がどうなるかも、互いのふたりの問題であって、他人が介入しうる余地はない。ただ横合いの関係として捨象されるほかはなく、ふたりへの影響は、なおも偶然でありうる。
此の者がもしも、ある個人の言動に不満をかんじたならば、その者に直接いえばいい。そして勝手に殊勝な承認や、ヘラヘラとした無言の拒絶をうければいいだけのことだ。なにも共同の問題と見做し、不満の捌け口として無責任な放言を散らす必要はない。此れを「私見」という言い訳でゆるされるとかんがえるのは、それこそ言葉の「濫用」というべきだ。「私見」というレッテルが通用するのは、それが「私見」の権限で済む範疇でいわれている時のみである。〈自己管理〉などという、単線的な謬見でもって他人の心理に触れうるとかんがえる程の見識の狭さで、現実の個々人や先人達の忍耐をどぶに捨てる所行を包括することはできない。

2011-06-21 ~ 2011-06-27

2

此所にきて当人から謝罪が公表された。まずまず平均的な謝罪文だろうとおもう。ききなれた一般道徳をいいたかったのなら、はじめから常識的にいっておけばいいのだ、とはおもうが、こちらとしては素人に高度さを要求してもしかたがないから、此の謝罪を素直にうけとってもいい。
しかし、ちがうんだよ、其所じゃないんだよという点は、のこしておかなければならないようにおもう。
自らのいる組織をよくもっていきたいと思う感情は、素直によいものであるし、異論のあるところでもない。だが如何なうつくしい感情があれ、どんな思想をも正当化することはできない。感情は、思想にとって動機となることはできても、論理の基盤にはなりえない。あらゆるうつくしい動機から、かんがえうる醜悪な思想をみちびきだすなど、歴史の実例にはありふれているし、唾棄すべき執念や無関心が、いがいにも感心な観点と、妥当な場所に情況をみちびくのも、人生の実相である。
思想はただ、思想の論理自身で真にちかづかなければならない。その点、組織をよくしたくおもって成したことだと云うのは、なんの言い訳にも謝罪にもなりはしない。はじめから問題はそんなところに無いのだ。たかだか個人の謬見を、共同の規制にしうるとかんがえた点に、むずかしいところがある。やるかどうかは別として、忘れ物をしないよう確りと準備をおこなうことが、生活のハリをつくるというのは当然のことであるし、借り物や頂き物をうけとるときに、礼を失するべきではないなどの言も、普通にうけいれられることである。だがそれを盾に、代表権をあたえられてもいない人間が、共同性からそれらの者を排除すると匂わすことは、いけないのだ。いくらみづからの意志でもって逃げだすことのできる組織であるからといって、なんぴとかを排除するには、一定の手順が要る。その手順を、たったひとりの即席の言明で負えると称するのは、その通りに烏滸がましい。
所詮だれかの感情など、人間の認識や言葉のなりゆきには大切だが、思想や表現の根本にはなりえない。人間の思想は、そんな単調に還元できるようにはできていない。みずからと無関係でありうる現実と、情況からどこまでも飛躍しつづける観念とを、複合的にとらえなければ、考えたとはいえない。そして、人類は黎明期から、このことを無意識に強いられてきたといってよい。ひとつひとつの組織は、この反対の極をひき摺っているのだが、此のことはいまだにはっきりとはみえない。
以上をもって、一週間の長きにわたりまったく返答を行わなかった非礼に報いようとおもう。それに見合う労力は、かけてあるつもりだ。

2011-06-27 ~ 2011-06-27