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音楽評(課題) #memo

4年前の課題、音楽評。

西洋クラシック音楽

  • ルートビッヒ・ファン・ベートーベン 交響曲 第5番 ハ単調 作品67 《運命》
  • クロード・アチーレ・ドビュッシー ベルガマスク組曲

先ず「運命」を聞いてみる。
前衛音楽をいろいろ聴いていた後にこういうクラシックを聴くと、音楽とはこういうものなのだなあと安心する。〈動機労作〉の手本というが、その点で聴いてみるとまったくである。ネタにできる程だ。このパターンが耳に鳴り響いていたのだろうと想像される。ポップスなぞよりよっぽど聴きやすい。音楽の純粋がベートーベン達の時代にはありえたということだ。今ではこんな作り方はできない。音楽はそれ以外のなにものかであって、独立して自存することはできない。音楽の純粋を目指そうとする者はいるのだろうが、そういう秩序破壊的な人材は欠乏傾向にあるのが実情である。物事の内在性と外在性との間の乖離の分だけ純粋はありえなくなっているのか。
次の「ベルガマスク組曲」だが、「月の光」はとても好きな曲で、しかし曲名だけわからずに時々耳にしていたのが、授業で聴いて嗚呼こんなところにあったのかと思い、買い求めた。私の趣味としてはこれと、その後の「パスピエ」がよい。印象派と言うにふさわしい曲調だ。とても視覚的である。「月の光」のような静かな緊張が私はとても好きだ。
クラシックの特点は、安心して聴けるということだろう。それは音楽の理想であるはずなのだがそんな考えは必ず行き詰る、音楽の不安はなにか。

前衛音楽

正直、発声の研究をするためにこの二曲を選んで買ったのだが、少なくとも合唱部での活動にすぐに役に立つはずがないのは明らかであった。聞けば聞くほどその感じは強くなり、どうしようかと思ったりもしたが、どうしようもない。発声法じたいは正統なのだが、この不安定さは聴き込みすぎると頭のゆれにくる。シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」は整序された不協が延々と続いてゆく。ピアノや管弦も、その不安定な声も、不協和音の持続がある。リゲティの「新アヴァンチュール」、これをまともにやる役者さん達もすごいなぁ。リゲティの声楽曲はおだやかになれるものもあったが、不協和音なのは違いない。

世界音楽

  • 竹本津大夫 碁太平記白石噺(新吉原揚屋の段)
  • Taravjav Ganbold 故郷

音楽とは西欧のものなのだと納得する。西欧以外では、音は宗教や物語、気持ちを伝え共有するためのリズムである。
義太夫。語る。喉を潰し気味である。それが正統なのだろう。
ホーミー倍音の高音はとても美しい。歌詞がモンゴル語、全くわからない。
民族性が至極強いので、民族音楽という言い方も妥当だとおもわれる。西欧クラシックを西欧の民族音楽など、近代西欧の奇跡を嘗めてはいけない。文明の進歩がすなわち精神の進捗にみえた時代は西欧の近代にしかなかったのだから。もっとも百年ももたなかったが。ユルゲン・ハーバーマスの「近代、未完のプロジェクト」との言述も、この奇跡の輝きを合わせれば、考え深くむやみに葬るわけにもゆかない。

Sprechstimme――歌に於ける語り

シェーンベルクといえば十二音音階を作った人として記憶している人も多いかもしれない。新しいことをしたかったのだろう。シュプレヒシュテンメを作ったのも彼男である。
語りといえば義太夫ホーミーも語りであるが、日本ではラップがポップスとして受け入れられているのは至極不思議である。ラップは明らかに語りであって断じて歌ではない。歌ったらラップのリズムも音韻も壊れてしまう。
シュプレヒシュテンメは歌であり、語りではない。「月に憑かれたピエロ」は歌として構成されているが、普通の感覚で歌ったり聴いたりしては感覚が狂う。よっぽど歌に習熟しなければ操れぬだろう。
楽譜を得られなかったので確認はしていないのだが、シュプレヒシュテンメではリズムは音譜通りだが、高音は指定の音に達した後直ちに離れて変化しながら次の音に移るらしい。「モーゼとアロン」という曲もあるらしいがそれは手に入れる暇がなかった。適当な調べでは、大衆の前で話すことの苦手なモーゼはシュプレヒシュティンメ、雄弁なアロンは朗々としたテノールという風に対照的な歌唱法で作曲されているだけでなく、合唱と小編成の合唱もしばしば通常の歌唱法とシュプレヒシュティンメの対比群に分かたれる、そうな。
ナポレオン・ボナパルトへの頌歌 作品41」も聴いた。浮いている感じがする。では浮動しているかというと、やはり五線譜に組まれていてきちんと居場所がある気がしてならない。楽譜の中を留まらず、前へ々ゝ進んで行く感触。ひょいと腹から上へ抜けて行く。おもしろい。いつか楽譜を手に入れたい。だがこれらを聴いていると、今のポップスに語りがないこと、なにも語らぬことが妙に気になる。オペラなどよっぽど様々を語るだろう。
Vocaloid」という、楽譜と歌詞を入力すれば自動で歌ってくれるソフトがある。うまくすればなかなか上手に歌ってくれるのだが、このソフトに「いぃえ、ケフィアです」など喋らせる楽しい人もいる。もちろん楽譜を入れて、喋らせるのだ。歌っているようにはこれが全く聴こえないのだから凄い。歌の極限には二通りがありえて、片や歌詞がメロディと渾然となって広がってゆく、もう片やはメロディが歌詞に吸収されてそれが空間へ分散してゆく。シュプレヒシュテンメは極限をめざしてはいないと感じる。歌で、喋る。どこかでバランスをとりながら歌とは別の方へ抜けてゆきたいという気概だ。詩では言葉の運行が問題となるように、歌では声の行方が大切となる。
だが今回で一番学んだのは、わたしが音楽を語るための言葉をもっていないこと、それを作るために音楽を聴いて考えてみねばならぬ事だ。残念である。

2008-02-03

参考