c4se記:さっちゃんですよ☆

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観念1,2,3(課題) #memo

四年前の課題、なげやりになりたい出来。

1

ガレノスとハーヴェイの心臓論の一番の違いは、〈循環〉にあるとおもわれる。ガレノスに於いては、心臓とは肺が大気から得た生気を全身へ送るものであった。ここでは生気が大気から入ってきて体をめぐりまた大気へ戻ってゆく。生気の経路で一つの結節点として人体があった。ハーヴェイでは違う。心臓はその拍動で以て血液を全身へ送る器官であり、血液は、心臓―肺臓―心臓―末梢―心臓の経路を循環する。こういった閉じた循環の像はパラケルススの頃には既にできていた。ミクロコスモスの考えがそうである。彼男は臓器のそれぞれの質を惑星の動きの質に対応させて、脳は月、脾臓は土星、胆嚢は火星、腎臓は金星、肺は水星、肝臓は木星として、そのときに心臓を太陽だとした。こういう身体の描像は、つまり、惑星の動きの宇宙を体の内へ畳み込んだものとなっている。身体はそれだけでひとまずは完結して、宇宙だということだ。
ハーヴェイの論には、当時のひね閉じた論理たちが書かれている。肺動脈は肺臓の栄養のために送られる。肺静脈は心臓で生気を生成する材料を送り届けるでけでなく、躰で代謝したあとの煤気が逆流して肺臓へ放散のために流れるそうだ。また血管は血液だけでなく、物を生命たらしめる生気(大気)が流れている。当時の考えとしては何らかの経路を通って生気(大気)が人体の微細へまで満ちてゆく必要があった。さもなくばそれは生命ではなく単なる屍骸だからだ。つまりハーヴェイは、生気なんて必要ないぞ、そんなものは幾ら観察しても出てきやしない、だったら無いんだろうと言ったのだ。心臓はその収縮で以て血液を末梢へ送りまた静脈から心臓へ送るのであって、その拡張により生気を肺臓や末梢から吸い込むのではない。ただ視えるものから演繹する。これが観察する解剖学の方法である。心臓隔壁に血液を通す穴は見えないし、あったとしても空気は静脈を、血液は隔壁の穴を通るのは物性からして不合理だ。
ハーヴェイがやったのはいわば、比較解剖だ。死体解剖、哺乳類・鳥類・魚類での解剖、それら発生途中の解剖。その観察から、心臓は明らかに弛緩ではなく収縮に於いて活動している。それと同時に動脈、静脈もまた拡張する。血液が心から送り突かれてくるからだ。また結紮の実験などによって、血液は心房から心室、動脈から静脈へとまわり心臓へと帰ることが示される。この行程を支えたのは、事実を積めば真を解くことができるはずだという信念である。


いくつかの計算と肉眼で見届けた実証とによって、余のすべての仮定は確証せられたのであるから、すなわち、血液は心室の搏動によって、肺臓および心臓を通過し、全身に進達せられ、そこで静脈のなかや筋肉のなかの小孔にはいって行き、次いで身体の各方面から、それぞれの静脈を通って、末端から中心の方へ、細い静脈から太い静脈へと還流し、このようにしてついには空静脈へ、そして心臓の心耳に達すること、ならびに一方では動脈によっての流出、他方では静脈をへての還流があまりにも大量で、しかも強いために、到底、摂取された食物からではこれを補給することが不可能であり、(また単なる栄養の目的だけのためだとするには)著しく大量過ぎるものであるということも、認証されたのである。
余はここで結論を下したいと思う。すなわち動物においては、血液は不断の巡回路をめぐって、一種の循環運動によって押しやられている。そしてこれこそは、心臓の活力、あるいはその機能であって、これは〔循環は〕心臓の搏動の力によって実現するものである。これを要約すれば、これ〔心臓の搏動〕こそは、唯一無二の血液循環の原因である。
ハーヴェイ『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』p130-131

この結論から現象を観察して、血液は動脈―静脈を循環すると追認するのは簡単であろう。事実とはそう、追認は構成よりも遥かに簡単にできている。この「追試は簡単」という特徴が科学の反証可能性を可能にしてもいる。ガレノス流の生気論は、事実の追認がほぼ不可能だ。というのも生気(生命)というのは科学ではなく思想だからだ。科学の方から哲学へ言えるのはそれが人間の考え方の簡便でない一つだと云う。哲学からは別の事が言える。科学は「対象に就いて」視る、哲学は「場所に於いて」語る。古くは科学も哲学もなかった。だが事実を一つの独立に折り畳まれた実体として定義できる水準になれば、哲学は科学に追いやられる。事実は独異だとか、実体は外へ繋がれざるをえないなどは現代哲学のはやりだろうが、所詮科学に味方するだけ、つまり思想を放逐するだけである。そうではなく、事実が勝手に思想へ転嫁するところ、思想史と生活史が交叉しうる場所を定めなければばならないのではないか。
そういう場所は確かにある、そう信じるだけの予感は持っている。いまさら事実を突き放すのは時代に反する。だったら事実の循環が思想に転嫁することを語ればよい。それが人間である、と。

現代の医学へ結び付けるならば。
人間が絶滅しない限りは思想が不要になることはない、ということだ。対象は目に視えるもの全てであるが、思想は観念であり、対象ではない。ハーヴェイの時代では、こんな事を考える必要はなかったのだが。

2008-02-11

参考

2

「医学」という言葉は西洋のmedicineの訳語らしい、明治に決められた。それまでは「醫方」である。医の源流をどこに求めるかは人の任意だが、日本での西洋医学の初めは明治前後でまちがいはない。明治の日本に受容力たるやなかなかのものがあるが、もちろん鎌倉-江戸時代に下地があったからだ。日本とヨーロッパはそれ程には似ている。封建時代が存在したこと一つをもだ。しかしやはり日本と西欧はちがっていた。これだけ交通が離れていたのだから当たり前である。それは明治に開いた日本の哲学を見てもわかるし、政治をみればなお解りやすい。西欧人のだれが国家神道は宗教ではないと言うのか不思議である。こうした西欧近代と日本との奇妙な差異は、日本には北方族と南方族の融合があったことによるだろう。もちろん朝鮮から高度な文化が伝わるもっと前のはなしだ。そして西欧近代と日本の奇怪な類似は、西欧にはローマ・アラビアがあり日本には中国があったからだろう。海のせいでちがいが出たなどと言ってはいけない。鎖国までは日本列島と中国大陸・朝鮮半島とには東北から九州まで結構な商交があったのである。
めだつのは差異の方だ。これは西欧近代の尺度からは後進性となって現れる。じっさい政治は西欧式となったから、これは後進性とせざるをえない。科学でもそうだ。だが西欧式を採用しなかった分野ではこの差異は単なる「ちがい」として残った。哲学の分野でいえばめだつのは西田幾多郎と田邊元であろうか。彼男らは日本仏教を哲学で述べるにはどうすればよいかに明確な印をつけた。柳田國男は旅人の文体とはどのようなものかを解明してみせたし、折口信夫は古典に入り込む手法を提出してみせた。でも逆に、こんな後進に西欧を移植しようとした者たちがなにを考えたのかも気になる。とても勉強不足な知見でしっていることといえば、福沢諭吉が市場の交通から秩序・道徳が構編されると考え、のちに幸徳秋水が欲望は共有されないから道徳には欲の制限が必要だとかんがえたことだけだ。戦後の丸山真男が幻想での〈空虚な西欧〉を基準として日本の後進性をねじれとして非難したのに対して大分前向きだが、このころは西欧はまだ真新しいもので、未来だったからだろう。もちろん医学でも同様である。杉田玄白緒方洪庵の涙ぐましい努力が西欧への正当な期待を物語る。
杉田玄白前野良沢らとドイツからの蘭本『ターヘルアナトミアTafelAnatomie』(Ontleedkundige Tafelen、独語でAnatomishe Tabellen)を訳して『解体新書』を発行したわけだが、それは観察という手法が日本に充分にあったからだ。逸話では彼男らは『解体新書』の観察の正確に驚いて翻訳を決心したことになっているからである。また彼男らには漢文の豊富な素養があった。英語の詩を訳そうとしてみればわかるが、英語の論理と日本語漢文調の論理はとてもちかい。有名なところで「神経」という訳語が作れたのもこの素養による。「神」という気のようなものが通る「径」だから神経なのだ。この時の日本人の漢語制作力のはすざまじいものがあって、「哲学」「理性」「客観」「観念」「共和」などがみな明治期の造語なのだというのだから敵わない。おもに西周に感謝だ。ちなみに「精神分裂病」もこのころの日本の造語で中国では未だ健在だ。漢文はそのころの知識人の基本パーツだったから、漢語で説明すればみな理解できたのだ。この論理の類似は飽くまで日本語漢文調へのもので、中国語はまたちがう論理である。いわばラテン語のようなものだ。ただ知識人たちの教養であって日常では使われない。
だから知識人が西欧を理解するのはとても容易だったのだ。並大抵の苦労ではないが苦心すればその分だけ蘭学は応えてくれた。とても恵まれていたとおもう。清朝の知識人たちには西欧はただ理解不能なものだったのだから。だがやはり変化は大きかったのであって、夏目漱石が正確に評したように日本の知識人は疲弊気味であった。脚気論争なぞめだつことを考えなければ単なる意地の張り合いで可愛いものだ。〈空虚な西欧〉を目標として身を置きながら、政治のためには日本性を遵守しなければならない。だれだって疲れる。そもそも西欧性じたいが疲労させるものなのに、さらに強烈になれば我慢が効かない。ほとんどは後進性へと流れ着き、残りは西欧に掴み掛かった。科学研究者には、そも研究とは西欧的なものだからか後者が多い。医学者たちもそれに倣った。これが日本は西欧の模倣・追随しかしないと言われる由来である。だれもが生きてゆかねばならないために、科学者は後進の論理を行使し続けなければならない。どちらも捨てる事なく解決したいならば、後進性を基底性に、先進性を規定性に置き換えなければならないだろう。
現実杉田玄白などはそういうことをやっているのだ。この悩みは西欧がある程度政治へ入ってきて、基底に否応なく染みてきたから始まったことも忘れてはならない。西欧が外来であるままなら翻案しつづければ日本流になるのであって、それだけだが、内住するにつれて異なる水準を同時に呑まされるわけで、そら弾ける。弾けるのだが、そこはそれ、分離しておくべきだ。無理ではない、異なる水準なら別々に呑めと言っているだけだから。

2008-02-13

参考

芸術人類学

芸術人類学

3

看護を誕生せしめたのはフロレンス・ナイチンゲールであろうが、彼女は二つのものを区別する。世話と看護、医療と看護である。女性はみな看護をするという。しかしそれは世話であって良い看護ではない。また医者は治療する。しかし治療は看護ではないし、看護士は医者の下働きではない。なにが看護であって何が看護でないか。ここで世話、治療、看護はみな病気への関わり方である。ナイチンゲールは主にとても具体的は場面で、そのときどうするのが看護かを説いたけれども、この差異化の願望へ言葉で以て入り込んでみたい。看護とはつねにこの差異を望むことでありえてきたのだから。
ナイチンゲールはまた統計の実用に腕を注いだ人であった。唯一統計のみが人を科学的に扱い得、的確に把握し、また正確に説明しうるからだ。彼女は人間の衛生環境のみを扱った。体内機構には関わりをもたなかった。なぜなら病気の状態を善く保つのに環境は関係があっても機構はどうでもいいからだ。そういう治療は医師がやる。病気ではなく看護は人に関わる、というのはナイチンゲールの定式であったと記憶しているが、それは機構を捨象する社会統計の手法からだ。そしてそれこそが看護だと言った。
マーシャル・E・ロジャーズの理論となると対してとても観念的だ。ロジャーズは物として人を扱うのは医療であり、看護は観念の全体性として人を扱うべきだと信じていたらしい。彼女によれば人は環境へと開かれたフィールド(場)である。この含意は、観念としての人はその身体よりも社会環境の方に内を向けている、体内はむしろ観念の届かない外であるといったほどのことだ。この洞察は優れているというほかはない。この場合の看護が世話とちがうのは、世話は相手を自分とは別個の実体として扱うことだ。これは生活する自然だといっていい。人はけっして二人にはなれないのだ。しかしそれでは看護ではない。生活は乖離であっても看護は溶融でなければならない。究極では相手の環境が自分の体内であり自分の環境が相手の体内だというところまでゆく。医療のように環境も身体機構も体外なのではいけないのである。もっとも現在の医術では身体機構を相手の体内として見通しを組むことは常識ではある。それでも看護とは逆だ。
ここでわたしは、人の精神を、環界と身体とにはさまれたものとして想定している。吉本隆明の描像とそっくりで、以前わたしはこれを否定する考えを描いたにもかかわらず今またこんなことを書いているのは、心的現象として環界と身体は等価で転換可能だからだ。精神は外界ではないし、また身体でもない。精神と自然とに乖離を措定しても、その自然を環界とも肉体とも置ける。またカール・グスタフ・ユングの集合的無意識の理念もある。これはふだん外界であるはずの他人を内臓と置いてしまう思考である。同時に自分の身体である精神は他人のほうへ把疎される。看護と医療は療養するということに於いてこの自然(生活)の二つの極端をそれぞれ志向している。極端であることでこのどちらも異常だし、だから専門術として有る価値がある。そして生活がこれらを放逐することはあっても、医療や看護が互いを排除することは権利上ない。
ふたたびナイチンゲールの統計も蒸し返せば、看護が看護学でありうるためには、環境評価の標準がなければならない。個々人の環境を標準化するこの手法の開発はとても困難だろう。環境の類型論である。もちろん環境には心情も入る。もっとも医療だって身体病態の類型学だから傾向は似たようなものであるが。

2008-02-12

参考

看護覚え書―看護であること・看護でないこと

看護覚え書―看護であること・看護でないこと