c4se記:さっちゃんですよ☆

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何故人を殺してはいけないのか/もし私が首相になったら・・・ #memo

もう7年も前。すこしは進歩したようにおもう。

「何故人を殺してはいけないのか」

「何故人を殺してはいけないのか?」と問う時点ですでに殺人の禁止が自明でなくなっている点に注意しなければならない。これは殺人に引かれる分断線(/)が権力線にまで段階を超えて昇華されていると言って良い。しかしこんな事ばかりを言っていても始まらないので、モチーフを駆使してみたい。
親鸞に次のような話が有る。仲間の唯円が親鸞に、上人様の言う事なら私は何でも到しましょう、と言った所、親鸞は、なら人を千人殺してきなさいと答えた。勿論唯円は出来ないと返事をしたのだが、ここでは親鸞は因縁の事を言いたいのだ。実際親鸞は上記の後で、相応の理由がないと所詮人間は何も出来ないのだという事を言っている。彼は、念仏を仮にであっても十回でも唱えれば必ず浄土にいけると言う。人間が自力で出来る事など大した事ではなく、自力では寧ろ浄土には行けないとすら言う。例え十回でも念仏を唱える気になるのは既に其の者が救われているからだ。要するに親鸞が言っているのは、人は関係の絶対性という不可避を生きるしかない、という事だ。勿論殺人をするのも殺人をしないのも一緒だ。この絶対他力では倫理学は不可能となる。
モチーフを換えよう。奈須きのこ空の境界』で、登場人物の両儀式は、人間は一生に一人しか人間を殺せないと言っている。つまりこれは、人は一人分の死しか背負えないという事だ。ここでは「殺人」に単に生命活動の停止に留まらない甚大な意味が持たされている。そうすると<殺人>は其の者の全人生を背負い込む運命のとして浮かんでくる。では何故一人しか<殺せ>ないのかというと、人は只一度しか生きられないからだ。只一度しか生きられないという事は、一つ丈の人生しか背負えないという事であり、人は自分も他人も含めて一生に一人しか人を殺せないという事だ。この考えの基には、人とはという絶対の尊厳を持つ、持たぬ者は単なるホモ・サピエンスに過ぎないという考えが有る。人は神に向かい合うである、と。
ここまで来たら冒頭の問いに戻って良いだろう。「いけないのか」という問いは「赦されないのか」という問いだ。赦すのは勿論他者が、であり、人は永久重力に捕われた不可避の単独者なのだから、「他者が<赦す>」事は此れとしては決して現前しない。赦しは啓示として、詰り赦せないものを赦す事だ。更に言おう、赦す事は其れを全て背負い込む事だ。此の問いで言えば、<殺人>を、換言すれば他者の故絶対に背負えないを背負うという事、詰まり不可能である。勿論自分の人生は背負わざるを得ないもので、だから<殺人>は誰にも赦す事は出来ない。
更に法に就いて触れておくと、「殺人禁止」という法が個体に逆立して存在しているのだ、という事以外に余り言う事は無い。詰り、法の面から何故殺人はいけないのかと言うと、其れはいけないからだ、という事になる。それ以上何も言う必要は無い。然し此の問には正義から答えなくてはならない。詰り人は関係の絶対性という秩序を生きるしかなく、其れ故殺された者の全人生を背負う<殺人>は絶対に赦されない。「許す」事は出来るが其れは「赦す」事ではなく、の放棄だし、其ういうものは殺人はいけないと言う資格は無い。赦せない実際に者丈が正義の旗の下に殺人はいけないと言える。だから冒頭の問に対する答えは「本質的に正義に名に於いて」である。

2005/10/04

参考文献

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)


未来の親鸞

未来の親鸞


世界という背理―小林秀雄と吉本隆明 (講談社学術文庫)

世界という背理―小林秀雄と吉本隆明 (講談社学術文庫)


空の境界 下 (講談社ノベルス)

空の境界 下 (講談社ノベルス)


デリダ (現代思想の冒険者たちSelect)

デリダ (現代思想の冒険者たちSelect)

「もし私が首相になったら・・・」

もし私が(日本国)首相になったら、という書き出しで書けと言われたのだが、一体何を書けと言うのだろう。私は首相になりたいとはとても思わない。だが、只言えるのは、私が首相になったら意図的に日本を破滅させるだろうという、という事だ。
これだけで終わると余りに寂しいので、何か付け足す。でも首相を目指すっていうのは何ていう事だろう。だが首相は目指せるものだという事がこれで明らかになった。天皇はそうはいかない。ま、平成天皇はもう形骸に近いから、昭和天皇以前の話だ。しかし首相って何だろう。国会議員から選ばれて天皇に任命されて・・・もう良いや。それよか僕は野党のほうが好きだ。兎も角首相は怖くない、だって只の人間だから。
所で、右翼と左翼ってなんでっしゃろ。右は保守派、左は急進派という事になっている。然して定義としては恐らくこれで良いのだろう。右翼は内部に閉じこもり、左翼は外部へ突っ走る、そう定義するべきだ。だとしたら僕はそれらを超えたい。永劫回帰の立場から双方を肯定する、そのために発生論をやるのだ。
もっと政治に近付いてみる。政治が政治として成り立つのは国家の成立からだろう。そこに於いて社会契約説は自然状態に遡行する。ホッブスに拠ると自然状態は万人の万人に対する闘争で、其れを封殺する為の統治が国家の発生である。ロックやルソーになると、自然状態は理性或るいは感情に図る平和な状態へと移ってくる。勿論これらは性悪説性善説かの違いに過ぎず、本質的ではない。吉本隆明は共同体の発生から国家の発生までを迫って行き、対自然と対隣人の関係が其々権威と権力として共同幻想に実体として分離された状態に有る共同体が国家の発生だと言った。これは前の二者よりは遥かに本質を捕まえてはいるが、まだ捕え切れていない感じがする。権威の主は大自然に仮託され、権力の主は共同体の代表(首長)である神官に仮託される。これが幻想の共同体として有れば確かに国家になる気がする。この構造は恐らく現代の日本にも当て嵌まる。戦中までは権威は天皇であり、権力は首相だった。戦後世代に於いてはそれは国民だったろうし、現代では権威の有り所は大衆だ。権力は首相である。権威が大衆だなど、これ程捉えにくい事態は無い。だから首相を考えるにも大衆伝達の考察が必要となる。だが大衆論をやると長くなるので別の機会にする。
国会は国民の代表だったのだが、当然大衆の代表と化す。ところが大衆というのは層が無い、詰り代表が有り得ないのだから、国会が機能しないのは当たり前だ。其れは権力へと同一化する。詰り首相の側へ行く。首相が相当なへまをやらない限り大衆は国民にはならない。だから少なくとも日本は大衆国家であり、首相は如何に大衆の声を捏造するかが問題となる。
若し私が首相になったら一体何をしよう。国家より高度な幻想を作り出すだろうか? 差し詰め其れは世界大衆とでも言うもので、結果的に日本は破滅しなければならない。だが私の生きがいから述べると、やはり首相になるのは当たらない。だからなりたい人に解答は任せたい。

2005/10/04

参考文献

共同幻想論 (角川文庫ソフィア)

共同幻想論 (角川文庫ソフィア)