c4se記:さっちゃんですよ☆

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表現としての言語 #memo

4年前に何かに寄せて書いた文章、後書き迄。他にも埋め立てられた文章が有るので、少し掘り返してみる。

表現としての言語

言語でなにかを表現することはちょうど商品生産の労働になぞらえることができる。人が時間を浪費してある言葉を吐いたとすると、この言葉の価値はその者が〈抽象的人間〉の水準でどれだけの時間を表現にかけたかに比例することになる。これは商品の価値が人の〈抽象的労働〉に於ける時間の浪費を根拠とすることに構造として類比できるし、言語の意味がその指示内容によることは、商品の意味が物がただ何であるかだけであるのと同じである。違いといえば、言語の美が幻想の領域で流通するのにたいして、商品価値は経済交通に於いて流通することだ。だがどちらも人間の身体存在に存立の根拠をおいていることはかわらない。いわば個としての身体から類の共同性へ活動を外化するときに価値が発生すると考えられる。個体からは共同の類はあたかも〈自然〉として現れるから、労働あるいは表現に於いて個体は〈自然〉を身体へと変えてゆき、逆にみづからを無機的な自然へ変容させる。この互いの変容の度合いとして価値は測られる。
こう考えておかないと、表現としての言語と、観念や概念としての言語のあいだに交通をつけることができない気がする。というのも、表現においては著者であれ読者であれ精神運動はただ言語の内在として現れるが、観念としての言語はそれじしん個体内奥の心的活動に於ける対象として捉えるほかはないからだ。思考は知覚や行為とはなんの関係もない領野に設定できる。それくらいには人間の精神というものは秘密である。このことは、観念は生理とは独立に、その観念自身を根拠として定立しうることを理由としている。観念としての言語は聴覚と視覚、そして行為が全てむすびつき、さらに内在化した場所で、流れを形作る運動である。
内田樹は言語をただ表現、それも意味としてだけとらえている。彼男の言語論はこの捉えそこないの分だけだめになっているといえる。表現としての言語は、媒介された他者としての自己と、媒介された自己としての他者の、狭間に存在している。この媒介の曲率として意味があらわれ、媒介の深度として価値があらわれる。ゆえに媒介の全体を考えずには意味を測量することはできない、かならず測りちがえるはずだ。それは誤謬というようなものではなく、或る必然の曲線を辿るのに定規の直線で以てするようなもので、かならず大きく外れてしまう。曲線と直線との交点だけでその曲線全体を測ろうなぞ、サンプリングの周波数が少なすぎるといったものだ。道を歩かずに俯瞰することはできない。なぜなら想像では、直視の視線での整形なしに俯瞰の立場から透過しても、ただ整形されぬ部分はすきとおるだけで、映像を得ることはできないからだ。
ひとつ、わたしたちが書かれた言葉を読むときを考えてみる。観念としての言語をなるたけ今は考えないようにすると、わたしたちは〈筆者〉をただその言葉のなかに、いわば言葉の襞として見出すほかはない。また〈読者〉というわたしたちじしんを、言葉たちが跳ね交う場処としてつきあたることになる。文字を書く側からすれば逆で、〈読者〉を言葉の襞として織り込みつつ〈筆者〉を言葉の場処として遊ばす。これを観念の位相で考えると、言語に胚胎された観念と言語を胚胎する観念とが互いに克ち合う構図である。前者は現在の水準の方へ、後者は個体の心状へ溶けてゆく。逆に現在と主体とがであう場面に表現があらわれるといってもいい。これが或る思想の根拠に、時代か性向のどちらかだけでなく、両方を考えなければならない理由である。
言葉の起源をかんがえるとき、想わなければならないことはいくつかある。言語が構造として成り立つ理由は何かというのがひとつであるし、文字と音声が統合される根拠もまたわからないところである。

夕星の輝きそめし外にたちて別れの言葉短く言ひぬ (吉本政枝)

たとえばこの短歌をとってみると、なぜ「夕星」と書いて「ゆうづつ」と読むのか、何故かというよりも、「夕星」という文字と「ゆうづつ」という音声とが結びついていると考えることができるのは如何なる構造によるのか。「夕星/の/輝き/染め/し/外/に/立ち/て/別れ/の/言葉/短く/言ひ/ぬ」という十五個の単語が集まっただけで何故「夕方星の出はじめたころに帰途についた客に戸外へ見送って小さく別れを言った」といったほどの意味を示しうるのか。またもっと細かく立ち入ってもいい。「夕星」という単語は「ゆう/づつ」という二つの部分に容易にわけられるが、なぜこの二つの部分の寄せ集めが一つの単語にまで昇華されるのか。「わ/か/れ」の三つの音韻の列がなぜ一つの単語を成り立たせるのか。これらのことは優れた理論家がたくさん挑んだにも関わらず、まだ根本は闇に残されている。これらを解きえないかぎり、現代で言葉を扱う論はなりたたない。言語の動きがそれたけ細分され高速化していて、そのことに論理の力で追いつかねばならないからだ。たとえ一つ詩作品をつくる場合でさえ、この洞察は必要になっている。時代に追い越されては成熟することはできない。成熟とは〈時熟〉であり、時代が熟するのに価値として時間を必要とするものだからだ。

20080831

言語論の準備のようになってしまった。もちろん独立した稿として読んでいただければありがたい。
自分としてはまだまだ考えが足りない、この程度でお茶を濁す他はないのだが、濁せるだけましだというなさけない状況だ。鍛えたりない。ただ言語についてまともなことを言えたのはこれが初めてなので、ここから始めていこうと、ひそかにおもっている。
因みに吉本政枝さんは吉本隆明さんの夭折した姉だそうです。