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アンデルセン『絵のない絵本』『マッチ売りの少女』 月の察知と幼童性 #book

矛盾した題名から風景まで、実に美しい『絵のない絵本』と、きっと絵本で知っている童話を収めたもう一冊。

絵のない絵本 (新潮文庫)

絵のない絵本 (新潮文庫)

マッチ売りの少女―アンデルセン童話集 3 (新潮文庫)

マッチ売りの少女―アンデルセン童話集 3 (新潮文庫)

『絵のない絵本』の月の美しさに惹かれて二冊を買ったが、良かったのは「雪の女王」だった。「旅の仲間」等も良かったが、『絵のない絵本』は「きれい……」だが綺麗な丈で、まあアンデルセンは幼童ではなく作家なのだな……。

1

其んな事よりも別の事を少し付け加えようと思うのだ。「〈童話〉とは、神話と文学の同致した形態である」と云う事だ。何故〈幼童性〉が神話と文学とを中和するのか? 〈幼童性〉は〈母性〉や〈父性〉と切り離せない。此所で〈父性〉を死後に、〈母性〉を未生に対応させてみれば、〈幼童〉はひとりでに、死後の死を未生の死に転換することにある。童話の死は、復活・再生を孕んでいる。
同じ事は〈動物性〉とも言えるのかもしれない。

童話「ヘンゼルとグレーテル」と「グスコーブドリの伝記」のちがいは、作者どうしの拮抗として理解できないことはない。宮沢賢治グリム童話の〈残酷な母〉にたいして〈慈愛の母〉を意図して拮抗させた。それは理念の拮抗としてうけとれなくはないが、もっと底のほうには親と子の関係についての、習俗の違いがあるような気がする。グリム童話が描いているのは、〈母〉と子の関係という意味は〈母〉の方からは動物だから、それに対応するのは子の機智(叡智)だという構造をひとりでにあらわしている。宮沢童話では〈母〉と子の関係は動物だから、それに対応するのは子の方からは幼童性のほかに、対応性は成り立たない構造をあらわしているとおもえる。ただ非常のときにどの側面があらわれるかというちがいが、童話の本性の違いになっている。
吉本隆明『ハイ・イメージ論?』「幼童論」 p195

わたしたちはうっかりしがちだが、愛、憎悪、残酷、犠牲、献身、というような関係概念は動物的という段階を包括しなければ成り立たない。そしてこの動物的という概念にいちばん近いのは幼童性だといっていい。グリム童話の〈母〉の子にたいする残酷も、宮沢童話の〈母〉の子にたいする犠牲や献身も動物的であるために幼童性に叶っているのだ。
同前 p196

神話とは、概念として分かたれた自然と文化とを、継ぎ接ぎして、社会に於いてバランスを保たせる試みだと言って良い。神話は現代では、文学・科学・歴史と多数の部分に分かたれて隠されている。
〈歴史〉とは、通常は知覚として現れ、行動として存在する物が、逆に知覚として存在し行為として現れる領域の事である。
〈科学〉とは、物がただ行動としても知覚としても認識と成る領域の近似である。
文学の理念とする倫理は、神話や、或いは童話の極点に於いては無化される他はない。では〈童話〉では幼童の死後から未生への転化が、倫理の中性への極値化に対応しているために、神話と文学とが此所では同致できるのか?
私が今スケッチとして述べられるのは、高々此所までだ。

2

最後にアンデルセンの風景の美しさに就いても触れておく。私が月のモチーフを好きだからと云う点も一役有るには違いないが、月の光がさっと察知するような、その視線の夢幻さが美しいのだ。然して此れは恐らく、詩より上の構築力の美に必須の、本質的なものだとおもう。


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