c4se記:さっちゃんですよ☆

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死とは何か? 等 #memo

以前別の人に送った文章を、転載の許可を取らなくても良い範囲で転載する。


1==
〈死〉は生の先に有る物ではない、病気や事故に遭って、疲弊して生理機能が弱くなり、軈て死に至ると云う風な考えは、間違いだと云う事は、大変に重要だと思われます。
〈死〉とは生の外側に有って、其所から生を規定する、〈死〉から見れば生の総体を全部見通す事が出来る、其う云う場所として〈死〉を想定するのが良いと思います。
根拠を挙げますと、〈死〉は個人の物ではないからです。〈死〉は個人の物ではない、共同の物なんだ、個体の物ではなく類的なものなんだ、と云う事です。此れが重要なのは、個人と共同は別の物なのだと云う判り良い例だからです。精神とは何かの結論を出さなくとも、此の例なら通じます。
もう一つ、考えの普遍性には外からの視線が必要だ、と云うのをはっきり言う例だからです。


2==
無意識と意識の関係です。無意識とは意識の知覚出来ない範囲だとの考えには欠陥が有ると思われます。間違ってはいないが、欠陥が有ると云う事です。
寧ろ無意識が有って、其の鏡像、或いはユーザーイリュージョンとして意識が有るのだと考えたほうが、解りが良いのではないか。
同じく精神、心とは何か、と云う問題ですが、精神とは身体の自然生理が其れ自体として矛盾を持った時、其の補償としての場所だと考えられます。
根拠は幾つか挙げられます。
一つは身体に就いて。私の知覚する私の身体と、其の身体を知覚している私の身体は別の物である、此れは矛盾ではないか、然し此の矛盾には根拠が有る。私の知覚する思惟は、自体としては物質から独立である。だが此の思惟は、客観的に見れば、身体を根拠にしている事が有り得る。
二つは選択に就いてです。身体は環界の物質の流れの、影響に依り知覚をする筈である。然し心的な構成力は、身体の必然の時間性に依って、環界を選択している。此の環界と身体との矛盾、言い換えれば対自線と即自線との錯合に依り、心は掃き出される。
三つは、私の精神は秘密である。喩え如何なる方法に依って自らが予測されたとしても、私の意志は其れでも自身が秘密だと考える事が出来る。
依って、個体と共同とは逆立する。何故なら私は、精神の本質的な〈秘密〉故、共同に於いては虚偽や欺瞞としてしか現れ得ないから。


3==
人間とは何かと云う問題も有ります。人間存在の本質は、類的存在だと云う事になろうと思われます。
〈段階〉の言い方で謂えば、物質の自然から疎外されて、それ自身を根拠とし得る迄に成ったものが人間だ、と成ります。詰りは、人間は〈世界〉と云う観念を捉える事が出来る。物質との繋がりとしては、環界は其の一部としてしか現れないのに、人間は類的な存在であるが為に、世界の全体と云う事を観念し得る。


4==
「性別化の式」に就いてですが。此れは人間の〈性〉に関して何も言っていません、全く無関係です。どうでもいいです。左をA、右をBとでも言った方が、ずっと正しいし、解り易いです。男性・女性と云う事と、此の「性別化の式」に何程かでも関係が有ると言うのは、意味不明です。
で、其の「AとBの式」ですが。どうせ論理学の記号を使っているのですから、論理記号通りに説明した方が、判り良いと思われます。
先ず此れは、〈世界と云う有り得ない全体〉に就いての主張だと云う事を前提として。Φxは、把握された物、確立された物。業界に言わせれば、象徴化された物、表象としての物。


・左のAは。
全てのxがΦxである――世界とは把握された物全体である、詰り世界の全体が把握されている。
Φxでないxが存在する――然し其れをあぶれた物が有る、把握されていない物が隠されている。


・右のBは。
全てのxがΦxとは限らない――把握されていない物が有るかもしれない、未だ把握していない物が有るかもしれない。
Φxでないxは存在しない――然し確かな物は、把握されている物丈である。


です。