c4se記:さっちゃんですよ☆

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井上幸亨郎 「序説第五版」「確実性」

なぜか旧サイトを引用してくださってた……。
確実性 - 掬ってみれば無数の刹那
 http://hoop.exblog.jp/10842508/
ので、打ち込んでUp。


井上幸亨郎 「序説第五版」「確実性」
 http://docs.google.com/View?id=dv55zwv_25fpgvh3dg
ユーラシア22℃
以下に、特に重要な部分である第一節を掲載。

 思想とは納得する為のものだ。然して洞うしても最後迄行かなければならないと云う事に成った時、思想家の問いは則ち、思想の成り立ち得る根拠は洞所か、でなければならない。詰り、納得させて呉れる筈の当の「思想」其のものを問いの掛けなければならない。思想は何か、ではなく、何が思想か、だ。然して最後迄ラディカルである為には此の問いを完遂させなければ不可能だ。則ち納得とは何か、確実性とは何か、だ。「何が確実か」ではなく「確実とは何か」、此れが最初の問いだ。
 確実とは何か、此の問いの入り口は洞所だろう?
 ルービッヒ・ウィトゲンシュタインは、確実性とは「制度に従う」事だと書いた。言い得て妙だ。「制度に従う」と云うフレ−ズを、「制度」「に従う」と云う風に分離する誤解を犯さない限りは、此れは洞所迄も正しい。だが「制度」の範囲が曖昧に過ぎて、イメージが確りと画定出来ず、此れでは誤解して下さいと言っている様なものだ。
 エドムンド・フッサールは思考の基礎を洞所迄も問い詰めた。中期の超越論的現象学では、超越論的自我こそ確実であり、其の立場に立ち確実な記述を行う為には世界の実体性を括弧で括る必要が有る、とする。だが此の解答は既に、超越論的自我が確実だと云う独断の上に立っている点で満足出来ない。後期の生活世界の現象学では客観性への問いの中から、我々の生活している世界は既に間主観的存在であると云う所から出発しようとした。此所で漸く問いの前後を逆転する転向を行ったと見れる。
 ジャック・デリダは、確実性の様態は常に既に時間−空間的にズレると云う「差延」だと書いた。相応の覚悟を以て当たらなければ此の思想は此ちらを呑み込んで仕舞う。其れに、此れでは上手く表し切れていないのではないか、詰り納得し切れないのではないかと云う疑念は付き纏う。納得しなくとも良いのなら始めから思想しなくとも良い。する限りは安心出来る所迄行かなければならない。
 カール・マルクスは、確実な真理はイデオロギーに擬定されており、真理を掴む為にはイデオロギーと関りの無い「科学」に依る以外は無いとした。イデオロギーをも俯瞰する視点としての「科学」、其れは別に構わないのだが、確実性に関する思考は無いに等しい。
 ルネ・デカルトは「方法的懐疑」を断行し、其の結果、「我思う故に我有り」と書いた。何故方法的懐疑を行うのか? 何が確実かを突き止める為だ。だが其の前提に、方法的懐疑を行わなければ確実な所は掴めない、確実性とは懐疑の先に有るものだと云う突き詰めが有った。然して其の上で、空無化した「我」が確かだとし、最高観念として神を措定した。
 柄谷行人は、内部に籠もっていては全ては独断にしか成り得ないとし、普遍的な確実性を求めるのなら、「教える―学ぶ」「売る―買う」の立場に立って、外部に直面するしか無いと書いた。要するに想像力の問題だと言っている丈だ。あらゆる「関係」はスムーズならざるものが有る、其所を仮構して障壁など無いかの様にしてはいけない、と云うわけだ。
 廣松渉は思想の核=世界の核に、共同主観性を据えた。「関係の客観性」としての間主観性と云う訳だ。全ては共同主観性に媒介されており、媒介場所である此れを最底辺に置くのだが、此れは思考の流れとしては自然な事だ。


 「確実性とは何か?」、何を問うのが正当かと問い詰めていった時に最後に引っ掛かっているのが此の問いだ。何を持って来られれば納得せざるを得ないのか。ざるを得ない、納得し得ない要素がちりとでも残っている場合、其れは恣意的な独断だと考えて好い。転向する余地の無い所が有るとしたら、其所を突き止めてみたい。確実であるとはどう云う事か。否定し得ない事、否定し得る点が無ければ其れは全く確実だ。其れは絶対に肯定されている。「絶対に」、疑問の余地のなど無い事。詰り〈疑問提示不可能性〉、本当か? と問う事すら出来ないもの、絶対の確実性は其うでなければならない。――不可避――。
 「不可避は不可避だ」と云う絶対の確実性。では、或るものを否定し又は疑問し得る条件は何だろう。
 ――然し此う問う時既に最初の問いが変わっている。則ち「確実性とは何か?」と問うのではなく、「何が確実か?」に暗黙に答えた後から「確実性とは何か?」と添え物程度に書き付けている丈に成る。
 確実性はデカルト型方法的懐疑の極点として、〈疑問提示不可能性〉として据えられる。此所迄が最初の問い――「確実性とは何か?」――に対して答え得る最後の回答だ。今こそ、今度こそ問いを厳密に転換するべきだ。則ち、「何が確実か?」
 〈疑問提示不可能〉なものとは何だ? 其れは捉え得るのか? 否、捉え得るのなら其れに対して「其れは本当に確かか」と問い得るのではないか? 則ち、絶対の確実性を持つ〈疑問提示不可能〉なものは決して捉えられない、捉えられる事は全て疑い得る。確実なもの、其れは絶対に肯定される為には対象=与件から絶対に外される必要が有る。逆に書くと、〈此の経験〉に於ける如何なるものをも確実だと据えて安定する事は無い。何かを据えた時に其所に有るのは、確実性ではなく只妥当性丈だ。〈此の経験〉に於けるものを基礎とする限り、其れは言語論であろうと身体論であろうと超越論的現象学であろうとイデア論であろうと、絶対に永遠では有り得ない。何かを扱う為には、扱う以前に既に端緒をだけであろうとも捉えていなければ不可能だからだ。捉えられない、詰り認識出来ないものは扱い得ない、故に、絶対に確実なものは則ち扱い得ない。扱い得るものは形而下だろうが形而上だろうが全て不確実だ。だから詰り、〈此の経験〉は妄想だ。或るものに就いて「其れは何か?」と問う場合其れは、「其れは洞んな位置を占める妄想か?」と問うのと同じ事だ。〈此の経験〉と云う妄想に於いて、或る妄想がどの様な捉え方を成されるか――全ての問いは此の様に成る。

こんなことしてるので、本サイトはいつまでも更新されない……。