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医学英語へのアプローチ(レポート)

井上幸亨郎 07410127
医学英語へのアプローチ(2008年度)

英語というのは、もはや一民族や一国の言語ではなく、世界における情報伝達手段としての「記号」としての機能が重要となってきているのである。(第8章)

これは迚も大切な事だ。現代の英語と、例えば日本語とでは、普遍性の範疇が異なるのである。いわば英語は〈普遍語〉、日本語は卑小な地域語といえる。科学や数学だけでなく、文学の言語としてみたときにでも、情況はかわらない。英語は読まれ、それ以外の言語はヨーロッパ語でさえも読まれなくなってきている。「国民文学」の時代は終わったのだ。
〈普遍性〉とは何かに就いても論及せねばならないだろうが、今ここでは置いておいて、しかし「第二言語としての普遍性」に就いては述べても許されよう。一般に、第二言語を習得することでわたしたちは何を得るのか。新たな脳の機能回路を得るといってもいいだろう。がしかし端的に、新たな意味の体系を得るのだ。表出の新たな経路を手にするのである。其れがなにを意味するのか――わたしたちは普段日本に於いて、日本語を以て文化の集積の一端にいる。月並みに考えて、この巡れる集積が増えるはずなのだ。

言語学的な差を克服するためには日本語→英語変換時間を出来るだけ短縮するよう、基本的に大脳の神経回路を組み替えなければならないのである。(第4章)

「英語」を用いるにあたって、文法的に正しい構文や、前置詞の使い方に注意しなければならないのは当然のことであるが、情報を相手に誤解なく伝えることが出来る範囲であれば、多少の文法的逸脱は許されるであろう。(第8章)

これらの文体がみせる楽観的な響きとはちがって、普遍性に関してはとても悲観的なことがいわれている。「母語としての普遍」と「第二言語としての普遍」には徹底的な隔たりがある。第二言語母語へ変換される。この〈翻訳〉によって失われる情報が多大だということは、経験的に自明だ。論理を以て述べてみてもいい。言語の翻訳は、或る指示の束から別の指示の束へ、意味の規則をたどって写してゆく作業である。多大な労力を掛ければ、指示するものをきっとほぼ同じにできるだろう。だが指示を同じにすればなおさら、言葉がもっていた歴史性は失われてゆく。たとえ苦心して歴史性を伝えたとしても、来歴は指示とは違うものだから、指示は曖昧模糊へきえてゆく。これはどうしようもない。つまり、第二言語から母語、あるいは逆へは普遍の形態は伝わらないのだ。それがどうしたのか? ――これが悲哀のもととなるのは、〈価値〉と〈普遍〉は間接的にしか関わらないと云うことだ。普遍とは同値の関係を基としている。別に、価値は時間の体系である。
論点を引き摺り回すようだが、此のことは文学の話にまったく限らない。科学、また医学の分野に於いても同じ事を論じられる。英語以外で、(受け取り手の)母語第二言語の事を考えれば、英語圏以外で述べられたことは、常に或る分だけ普遍性が下がる。

しかし、その目標は相手に“英語=国際共通語”として理解される程度であれば十分であり、英語を母国語とする人達の様になる必要はない。ただし、何を考え何を発信するかはその人の日本語能力に根ざした教養であり、単にオウムのようにしゃべることではない。(はじめに)

正しい、全く。
だが考えられることはそれだけではない。英語を母語とする者は、「英語→英語変換」なるものに煩わされない、だから、特殊な事情のないかぎり、言語を以てする普遍の基盤と云うものに考えを及ばせない。つまりわたしたちには、言語の間でオープンにしてゆく、と云う課題に取り組みうる――そういうことだ。

(以上、本文1487字)
20090128


今は、普遍性、指示表出、自己表出について書いている。
そのまえに文化人類学のレポートを……。

参考

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で 日本語のゆくえ