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法・存在倫理Ⅰ

井上ネム
文章協力:麻井シキ
〈法・存在倫理Ⅰ


Begin 20061017


 コトバのカタチ、つたえるキモチ――。


♪ 20061017


 本当の自分――たぶんそういうものはある。「本当」なんて幻影で、ありうるとしても無限の彼方にだけだ、っていうのが最近の流行りだけれど、これは穿ち過ぎで、例えばジャック・デリダなんかは「絶対の本当」ってのも確かに批判したけれども、「無限の彼方」っていう考え方をも批判した。本当は差延としてしかない、だけれども差延としてはちゃんとある、ってのがデリダさんの書いたところ。探しもの、なくしもの、大切なものを探していって、あっ、なんだ、こんなところに、って時、それがきっとあなたの本当。
 出会いと別れのアイデンティティー、其のなかに自分はいる。自分と自分の出会いがあって、こんにちは、それがあなた。いわゆる自己認識ってやつ。超自然的な想像力、加速度的に走っていって、ぴょんと更にとんだ時に、ぽうっと突然ヒカリがみえる。そのヒカリはあなたの影で、決してあなたじゃない。でもそのヒカリは、いつもあなたといっしょに走っている。カゲとヒカリ、出会いと別れの煌めき――忘れないでね、と。出会いとはおどろきで、いつかきっと別れることになる、でもせめてその間は――いっしょにいられる?
 いっしょにいること。いっしょにいて分かち合うこと。本当に独りでは生きてゆけない。哀しみも、苦しみも、ひとりでなんとか耐えてきたんだって思ってた。でも本当は、支えられていただけ。幻影でもかまわない、楽しみも、哀しみも、怒りも、嬉びも、全部いっしょに分かち合って、二人で歩いてゆく。離れることだってあるかもしれない、でもきっと、戻ってきて――、私もきっと戻ってくるね。裏切って、傷ついて、傷心――つきっ、痛む。傷つけたことに傷ついて、でも私とあなたはもう別れてしまう。

 「式、君を一生許さない」(奈須きのこ空の境界」)

この言葉は両儀式(りょうぎしき)が白純里緒(しらずみりお)をとう〳〵殺した時に、黒桐幹也(こくとうみきや)が言ったものだ。式が殺そうとしたのは五人で、巫条霧絵(ふじょうきりえ)・浅上藤乃(あざがみふじの)・荒耶宗蓮(あらやそうれん)・玄霧皐月(くろぎりさつき)・白純里緒だった。

 「―――なあトウコ。なまじ飛べちまうと、人間っていうのはあんな末路を迎えちまうものなのか」

 巫条事件の発端は飛び降り飛び込み自殺の多発だった。自殺した人達は、その人たちの飛んで自由になりたいという望みに沿って、文字通り飛んだ。重力に沿うのが常態のわたしたちにとって飛ぶとは鳥のようになることではなくて、重力から逃れること。それは地上的な肉体からも離れる事で、つまり想像的な死。そして自殺した人たちは、巫条(の幽離体)によって、自分は飛べるんだ、と暗示させられて、その暗示とそれぞれの望みに沿って空中に踊りでた。――肉体では飛べるわけがないのに。とはいっても、自殺者たちは実際に自殺するよりそのまえから幽離したかたちで飛んでいた。発端の巫条がまずはその幽離の典型だったのだし、ともかくは、垂直の視線を持つことと幽体として宙を舞うこととを、地上的な日常から逃れることとして結びつけたのがここでの作者の理念になっている。だから式はここでは何の殺人をもしてはいない。彼女がやったのは、日常の繰り事から単純にとびだそうとする願いを殺したということ、――引きもどすのではなく殺すのだ、と。
 浅上を――結局は殺さなかったけれど――殺そうとしたとき、これはもうすこしは「殺人」に近かったのだとおもう。式は浅上について、はじめの五人はたしかな殺人だけれどもと前置きしたうえで、こいつは人を殺していないと評した。浅上が最初に殺したのは、自分を弄んでいた相手とそこにいた仲間たちだった。これは自然な防衛の反応になっている。わたしたちだって殴られそうになったら身を庇いはする。浅上の場合は彼女が強いサイコキネシス(この話しのばあいは視野の中に設定した回転軸を中心に物を曲げる能力)をもっていたからひどい結果になって、はっきり気づいたときんには相手の人たちはもう血塗れで死んでいる、――そして、ここから彼女は飛躍した、これは報復なのだ、と。式が評するところのはじめの五人まではたしかに報復だった。でも、浅上が報復とは関係のない人までをも殺せるようになって、報復ではない要素を支配的な動機として人を殺しはじめたとき、彼女は「人」を殺せなくなった。彼女は人を殺しているのではなくて、単に人をひん曲げて苦しみもがかせて、人が死んだのは瑣末な結果なだけになっている、というのが式がここでいったこと。浅上は幼いときにむりやり無痛症にされていた。痛みを感じられるかぎり彼女は力を発揮できるから――痛みを感じられる(物に触れているかいないかがわかる)とうことは、自分のからだがどうなっているかを目で見なくても感じられるということ。それはふつうにはとってもあたりまえのことだけれど、からだがどうなっているか触覚でわからずに視覚で見るしかないというのはつまり自分が幽霊になったのとおなじことで、だから生きているんだっていう感じがない。それは自分の力のうごきが無意識的にすら(慣れきってあたりまえの力はべつだけれど)わからないということ、そうなるともう力は使えない。それに彼女のばあいは痛みと生きている嬉びとが結びついていた。痛みを感じること、相手を苦しませることでその類比として自分が痛みを感じること――浅上にとってそれは自然な嬉びだ。ここで注意しておきたいのは、はじめにあった防衛の自然性と浅上にとっての殺人の自然性は式にははっきりと区別されている。これは生命的な自然と幻想での自然との背理に当たっている。生命的な自然は単純な反射反応で、その結果をどう扱うかはしたこととは別の問題。でも、幻想の自然性はこれとはずれてきてしまう。心は確かに生命から規定されてはいるけれども、それでも価値を基準にうごいてしまう、そして、価値はいつでも生命的な自然とは無関係でありうる。でも式にとって、殺人と自然が普遍的な一致でいいはずはなかった。それは彼女が祖父の死の際に言い聞かされた言葉に起因するのかもしれないけれど、そのことはここでは重要じゃない。式は自分の反対物として自分の中に「織」という殺人衝動の象徴をもっていた。式と織はその人生のはじめからたがいに背を向けあって、でもずっと二人で生きてきた。式も織もどちらも相手を快くは思わなかったけれど、でもおたがいに大切だった。表向きの無難(? ――でもないかな)な顔で女の子の「式」、殺人衝動の顔で男の子の「織」、かみあわない二人。そして、かみあわないけれど、それでも大切だからこそ、式は相手がそこにいることの大切さを基準に生きてこざるをえなかった。だから式は、浅上が殺しを楽しんでいるときこそためらわずに殺そうとすることができたけど、そうではなく普通の「人」に戻ったときはどうやっても殺すことはできなかった。
 荒耶と立ち会ったときはもうすこしだけ話しがこみいってくる。臙条巴(えんじょうともえ)があらわれたからだ。そも〳〵荒耶の目的は、人間を、そして人間の業を救うこと、そのために世界の根元を捕えることだった。それは人をこの業に運命づけた神を糾弾し、神と戦い、神をうち倒すことだ。でも遥か昔、その前に荒耶は、人間というものの運命を見定めることにした。そのために死に様を収集し、そして見定めた! ――此の世に救いなどはありえないということを。こうして彼男は神殺しを思い立ったのだけれども、その方法として二つのことをした。一つは式の身体――太極と云う神へ通じる身体――を使う方法で、もう一つは全ての死に様六十四種――この数はたぶん易の卦に基づく――を全て集め、ひたすら運命を描かせること。――これを実践するために、彼男は?陰?と?陽?二つの部分に分かたれた建物を造り、片側には六十四種の死に様を集め、もう片側にはその死に様を行った家族の人形たちを住まわせて、ひたすらに繰り返して同じ死の一日を演じさせる。こうして彼男は陰/陽の両儀をつかまえた。が、準備のときに事故が起こった、それが臙条巴だ。この臙条は繰り返す方の棟にいた人形で、その晩も彼男の母が臙条も含めて家族を殺し、母も自殺するはずだった。でも臙条は、殺される前に母を殺して建物から逃げだした。この逃走は荒耶には予想外だったけれども、(臙条は人形だったから)いずれは破滅する輩なのだし、それまでに何をする力もなかろうと高をくくってほうっておいた。そして、臙条は式に会った。
 ――結果だけをいうと、臙条は荒耶に挑み、そして殺された。臙条が荒耶に挑んだ式への恋と、家族愛とその復讐のため。そして臙条は殺された。
 式は荒耶と戦うまえに次のようにいう。

 「けど初めてだ。オレ、ぜんぜんうれしくない。獲物を前にしても心が弾まない。お前とならぎりぎりの所で殺し合えるってわかってるのに、笑えない」
 「ああ、わかった。オレはおまえを殺したいんじゃない。ただ、おまえが『有る』のが我慢できないだけなんだ」

 あるのがゆるせない。
 たとえば浅上を殺そうとしたときの式の動機は、その殺し合いが生のぎりぎりのところにあるということ、人でなしの自分と人でなしの相手とが死の近くで殺し合いをして、死に近いが為に逆に生を実感することだった。この荒耶のときも、ぎりぎりで殺し合えるだろうし、楽しもうと思えばすごく楽しめるだろう――けれども全く楽しく無い。、寧ろイライラする。どうしてかというと、それは相手に対する嫌悪と臙条の想いへの弔いへと動機が移ってしまっているからだ。また、荒耶は人ではない。――これが式が荒耶を殺す、そして殺さなければならない正統性になっている。
 玄霧皐月については省かせていただきます。後で書きます。
 そして――最初に挙げた引用である、白純のケースがやってくる。この場合が一番最後にくるのは(本当は最初にもきていたのだけれど)、黒桐幹也が強くかかわってくるからだ。まず白純里緒は黒桐の先輩であり、二人は確かな知り合いだった。さらに白純自身の言を使えば、黒桐は白純を最後まで認めてくれる(であろう)人であり、白純の過去の半身を占める人だった。ちなみにもう半分は両儀式だ。そう――白純は特別になりたかった。偶然にしろ、彼男が人を殺すという「特別なこと」をし、「特別なやり方」で処理をしようとしたときに、そこに荒耶宗蓮が現れ、彼男の起源――魂の本質――を呼びおこすことを提案し、白純は同意した。起源覚醒者は選ばれし者である、そして特別な者が特別なことをするのはあたりまえのはずだ、と。こうして白純は殺人鬼になる。でも単にそれだけじゃなかった。「喰う」という数億年由来の起源に晒されて、ほんの十数年ぽっちの自我はのみこまれる危機にあった。それが恐くて白純の自我は拠り所をもとめて、それが両儀式だった。両儀式の本性は「死」でそれは殺すことに繋がっていて、だから式も殺人鬼のはずだ、そして殺人鬼が自分だけじゃなくて両儀式という最高の殺人鬼がいるならば、殺人鬼はたしかにこの世にいるということを拠り所にして自分は生きてゆける。絶望的な孤独に耐えられないこと、この儚い幻想。だから白純は、式が殺人衝動を実際に実行に移すことを望んだのだ。
 この白純の行動に対して式は次の様に言う。

 「殺人と殺戮は違うんだ。覚えてる、―――コクトー?人は、一生に一人しか人間を殺せないって」

 これに対する蒼崎橙子(あおざきとうこ)の注釈は、

 「言葉通りじゃないか。人を殺す鬼なんだから、そんなの自然災害と同じだよ。巻き込まれたほうに運がない」

 というものだった。実際は式の言葉と蒼崎の意見とには微細なずれがある。式は彼女の祖父から次のように聞いた。人間は一生に一人分の生しか背負えない。だから自分も含めて、人は一生に一人しか殺せない。他人を殺してしまった人は、もうほかの他人や自分自身の命を背負えないんだ。この場合は「人」を殺すとは、その人の世界を認める事、その人による世界を担うことだ。一方蒼崎に於いては、人生的な理由があるかどうかが問題になっている。理由もなしに殺されるなんて、そんなんは「殺人」じゃなくて自然災害とおんなじだ、と。これら二人に対して式ははっきりした理念を持っているわけではない。式は人を殺したい、でも尊厳からか理由からか、人を殺せない。人を殺すとはとても重大なことだから。
 式は白純はもう人ではなくなっていると考えている。でも黒桐は、白純が彼男に助けを求めている言葉を紡いだことから、白純にはまだ「人」があると信じている。ここで困るのは式だ。式は自分は独りだと思っているけど、無意識ではっきりと感じ取っているように、黒桐は式の欠けた傷跡を満たしてくれる人なのだ。織を亡くした傷跡を埋めるために式は殺人に走ろうとしている。でも、殺人を犯せば他の誰よりも黒桐が赦してくれない。
 黒桐が、

 「先輩を殺したら、僕は君を許さないからな、式」

 といったとき、式は自分がどう思おうとも白純を殺せなくなってしまった。どうやっても殺せない。だから結局式が白純を殺したのは、黒桐が白純に殺されたのだと確信した時、そして自分の命が尽きかねない最期の瞬間まで黒桐の思い出を消尽してからだった。


♪ 20061115


 赦すこと、それは死にとっても近い。そして赦さないのも死にちかいことだ。まるで、赦さないことこそ赦すことで、赦してしまえばそれは赦さないことになるんだ、ってみたいに。

 「式、君を――一生、許さない」

 赦すことと放すこと、この二つはおんなじことなんだろうか。たしかに似ている。罪を赦された罪人は放免される。たとえばこの『空の境界』の副題は「The Garden of sinners」(罪人たちの園)となっているけれど、いったいだれが罪人なんだろう。複数形のsinners、黒桐幹也両儀式蒼崎橙子黒桐鮮花(こくとうあざか)・織・「 」・秋隆(あきたかさん)・大介(だいすけ)・荒夜宗蓮・アルバ・巫条霧絵・浅上藤乃・ 臙条巴・玄霧皐月・黄路美沙夜(おうじみさよ)・白純里緒・その他の様々な登場人物達、このすべてが果たして罪人なのかもしれない。生きることそのものがすでに罪なんじゃないか、あるいはどう軽く見つもっても、幻想で生きることはもうとりかえしのつかない罪なんじゃないの、こう問うことはどんなことに対してだってできる。この原罪Sin、そして法に対する罪crimeとは永劫にかみあわない、なぜなら法にとって生きていることが罪であっていいはずがないし、法は幻想性を問題にしないんだから。
 幸いにも意想外の生命力によって黒桐は生きていて、式は白純を殺した。朦朧とした意識、動かない体で黒桐は式を探す。そして殺された白純の隣に横たわる式をみつけたときの彼男の意識は次の通りだった。

 けど、それでも……僕は式が生きているほうが嬉しいんです。先輩。あなたを、哀れだとは思えない。

 これは式が黒桐にとってとっても大切な人だからだけど、白純に関する感情はゼロだ。白純はこのときにはもうどうでもいい存在へとなっている。似た記述はもう一箇所ある。

 「……うん。けど、僕は彼女に同情する。正直にいって、彼女を襲った連中が死んだことに何の感情も浮かばない」

 これは浅上に暴行を加え、浅上に殺された者たちについての黒桐の言葉。黒桐は浅上の殺人をそんなに悪いことだとは思えないでいる。これと比べて、黒桐は式を赦さない。人は一生に一人しか人を殺せない。そして式は白純を殺してしまった。だから式は自分を殺せない。式は白純の死を担ってゆかなければならず、式の命も白純の命もそれはまったくただ一つのものだから、式はそれ以上死を担うことはできない。もちろん式自身の死をも。式はたった独りで死んでゆく――式自身すら伴わずに。それはとっても淋しいこと。だから、黒桐は宣言する、僕が君を殺そう、僕が君の死を担おう。その可能性のすべてに於いて君を独りにはさせない、君に一生伴ってゆこう、君を一生放さない。黒桐は浅上を赦す。というよりは、はじめから赦す/赦さないを考えなかった。

 「ねえ、黒桐君。あなたはほんとうに何も望まなかった。白純里緒と対峙した時も、死と隣り合わせだったのに中立を選んだ。」

 物語の初めから終わりまで、黒桐が赦さなかった、あるいはそれ以前に赦す/赦さないを問題にしたのは式に対してだけだった。赦す/赦さないを問題にしうるのは、相手を絶対に赦せないからなんだろうか。絶対に赦せない=放せないからこそ相手を赦そうとすることだできるんじゃあないか。赦すことは相手の命を担わないこと。相手を赦せるってことはもうその相手はどうでもいいってことで、赦さないという宣言は、相手の全てに責任をとりますっていう言葉だ。それが愛からか憎しみからかはわからないし、どちらのばあいもありうる。君がまったくどんなことをしようとも、私はきみの味方、あるいは敵でいます。愛と憎しみがいれかわるのは一瞬のこと。なぜならそれは、どちらも相手を決して放さないという心の構えを示しているから。赦す/赦さないの場面に、善/悪はない。赦す/赦さないは肯定か否定かに関わりがないのだから。相手を求めること、相手を担うこと、相手を放さないこと。それは、相手をその死の可能性に於いて担うこと。――でも、愛することと憎むことはほんとうに区別がつかないんだろうか。愛することとは過剰に名前を付けること、憎むこととは相手の名前を消すことではなくって? ――いやちがう。名前を消すのは無関心だ。愛憎は、絶対というおぞましきうつくしき一体、円環する……。それが愛か……憎なのかを決めるのはただ、関係のみ。
 ようするに、愛するとは何を赦さないのか、何を放さないのか。相手を赦さない、それはわかった。でも、その人を赦すからこそ赦さないんじゃないの。「式、君を一生許さない」、君がなにをしたとしても僕が担う、僕が赦す、正にその赦すことに於いてこそ、君を一生放さない。『空の境界』に於いてはそれはこう表現される、君はきみを殺せなくていい、だから僕が君を殺そう、君が怪物であったとしても。君は僕を散らしてもいい、だからこそ、僕は君を散らさない。ここで「散らす」っていうのは、死を単に与えること、相手を「人」として殺さないこと。生命的な自然の重力だけにまかせてしまって、人生を担おうとはしないこと。
 はじめのほうに出てきてくれたジャック・デリダさんにもう一度でてきてもらいましょう。『雄羊』という本で彼男は、パウル・ツェランと云う人の次の詩を読み解いている。

GROSSE, GLÜHENDE WÖLBUNG
mit fem sich
hinaus- und hinweg-
wühlenden Schwarzgestirn-Schwarm:

der verkieselten Stirn eines Widders
brenn ich dies Bild ein, zwischen
die Hörner, darin,
im Gesang der Windungen, das
Mark der geronnenen
Herzmeere schwillt.

Wo-
gegen
rennt er nicht an?

Die Welt ist fort, ich muss dich tragen.

 この詩の、ここでは特に最後の一行――Die Welt ist fort, ich muss dich tragen. 世界は消え失せている、私はお前を担わなければならない。英語に訳すとすると、dichとtragenの語順を逆にしなければならないけれど――The world is faded, I must bear you. となる。だれがだれを担うのだろう。たとえば今だったら、黒桐が式を。或いはこの言葉のまわりを一回転して、式が黒桐を担うのかもしれない。だって式にとって黒桐はとても大切な人だから。でもこの時には「世界は消え失せている。」デリダさんはこの言葉に就いて、五つの結論めいたものを書き記している。
一、担う、フランス語でporter 英語でbear この語には、母が子をみごもるという意味がある。誕生するよりも前の時間に、二人だけでいて、相手をみごもる。私はしなければならないich mussという宣言の言葉は常に未来を向いていて、来たるべき者を、まだ生まれていないで、これから死からやってくる者を担うということ。
二、逆に、死んでしまった者を、その思い出に依って担うこと。死後の生をいきる者、思い出の幽霊として相手を担う、そういう喪の場面としてこの最終行は読める。
三、あなたを担うdich tragenとはどういうことなんだろう。喪すること、他人の死と自分の生は関係がない、それにもかかわらず弔うこと。喪するとは、自分の内側で相手を想うことにより自分の領域に相手を保とうとすることだから、相手を取り込もうとすることでもある。でも、理想的な取り込みができるとしたら、はたしてそれは喪なんだろうか。他者がもしほんとうに自分とはちがう者だとすれば、それを取り込みきることができるはずもなく、だから理想的な喪(それは相手を完全に担うこと、その相手は自分なのかもしれないけど)ができ得たと考えるのは、他者を忘れることだ。他者の死を自分の生が担うのだとがなりたてること、でも規範=法はこれを要求する。生活することと担うことは、たぶん反する。
四、Die Welt ist fort 世界は消え失せている――あらゆる世界が消え失せた時、そこには一体なにがのこるんだろう。全てが消え去って、そこで、他でもないあなたを、担わなければならない。絶対に不可能なこと、でも、だからこそ担うことは世界以前にあるんじゃあないか。世界が坐す前に、自分が生まれ他者が在る前に、みごもる。そして他者をみごもることは、他者にみごもられることでもある。私ichとあなたdichはそれぞれ全世界die Weltなんだから。
五、他者を担うことは他者を翻訳することでもある。他者はそうしてやってくる。そして、他者の到来により世界が出来るとき、世界が世界になる時に、まさに既に世界は消え失せているんじゃあないか。つまり世界を創るとは、未来へむけて、そして生き延びる思い出へむけて、世界をみごもることではないか。
 ――以上が彼男の挙げた五点。そしてデリダさんは、この本はそも〳〵ハンス・ゲオルグ・ガダマーさんへの喪として書かれたのだけれども、このあまり長くない本を次のように結んでいる。

 これが、果てしのない会話のあいだに、私がガダマーに助けを求め、彼にしてみたかった問いの一つである。思考の中で私たちの方向を定めるために、またこの恐るべき任務の中で私たちを助けるために、私としてはまず、私たちの内で、私たちよりも前に他者が語っているその場で、私たちがどれほど他者を必要としているのか、これからもなおどれほど彼を必要とし、彼を担うことを、彼によって担われることを必要としているのかということを喚起することから始めただろう。
 たぶん、そうしたすべての理由から、私はまずヘルダーリンを引用することから始めるべきだった。「というのも、誰も独りでは生を担わないのだから Denn Keiner trägt das Leben allein」(「巨人族 Die Titanen」)。(ジャック・デリダ、林好雄訳『雄羊』)

 誰も独りでは生を担わないのだから。式の祖父は、人は一生に一人しか人を背負えないと言った。自分も含めて、人の尊厳はみないっしょだから。一つの人生は一つの尊厳しか担えない――ここに自分と他者の区別はない。いっしょにいること。相手と――その相手が自分であるか他人であるかの区別はなく――相手といっしょにいること。たぶんこれが、赦すこと、担うこと、放さないことをつなげる糸だ。
 デリダさんは次のようなことも言っている。sáttendreというフランス語は三通りに読める。一つは、自分で自身を予期すること。二つは、他のなにかを待ち、したがってなんらかの他者を予期すること。そして三つめとして、人が、互いを待つこと。自分が相手を待ち、相手が自分を待つ。二人の生ける者が、いつか死ぬ者同士が互いを待つ。Die Welt ist fortというような死の縁で人はいつも生きているのならば、死の縁でしか相手を担えないとするならば、自分が相手を担う限りに於いて自分が約束の地に先に着いてはだめなのだ。なぜなら死んだ者が相手を担うことはできないのだから。担うことは、ich muss dich tragenというように、つねに未来を向いていなくちゃいけない。だから担うとは、待つことだ。「式、君を一生許さない」――式、僕は君を一生待ち続けるから、君は向こうへ行って、僕を待ち続けてくれ――と云う呼び掛け。


♪ 20061213


 『空の境界』にはあと二ヶ所とりあげたいところがあります。いづれ増えるかもしれないのだけど、今は二ヶ所。一つは玄霧皐月について、もう一つは最後の場面を。
 「忘却録音」のはじまりは、妖精さわぎのうわさからだった。幹也の妹である黒桐鮮花(そして彼女は兄の幹也に恋をしている)の通う礼園女学院(れいえんじょがくいん)という高校で、妖精を見たという噂がでた。一年四組の生徒にはその全員に、本人でも忘れている記憶を書き付けた手紙が延々おくられてくる。四組の生徒はみな、記憶を採って手紙にしてくるのは妖精たち(を使い魔として繰っている者)だという。礼園は超名門校、なかのやっかいごとを無闇にそとにだすわけにはいかないから、学園の卒業生である魔術師蒼崎橙子に調査・解決の依頼がきて、蒼崎の弟子である鮮花に「修行の一環」ということで調査の御鉢が回ってきたのだ。その頃の礼園の状況を纏める。一年四組の担任の教諭が、葉山英夫(はやまひでお)から玄霧皐月に代わった。このときにはまだ明かされていないことだけれど、葉山は四組の生徒に援助交際――というか売春――をさせていた。そのなかの橘佳織(たちばなかおり)――彼女は生粋のクリスチャンだった――が妊娠したところから事ははじまる。橘は葉山の誘惑、あるいは脅迫に限界まで応じなかった。そして最初で最後の一回の売春に、妊娠してしまった。葉山や四組のみなとしては、秘密を護るために彼女に堕胎してもらいたい。でも彼女はそれを拒んだ。だから葉山は四組の寮に火をつけ、橘は逃げ遅れたふりをしてわざと自殺した。幹也や橘の幼な友達である黄路美沙夜の想像するところでは、彼女は生粋のクリスチャンなのだから、ただ自殺をするわけがない――それは贖罪なのだ。だから黄路が妖精を繰って四組のみなを追い詰めたのは橘佳織の復讐のためだった。彼女の贖罪をうけとりもせず、悔いもしないで安穏と生きている四組の人達が黄路は赦せなかった。彼女たちは地獄に落ちるべきだった、そのためには殺すのではだめだ――自由に自殺しなくちゃあいけない。正に、橘佳織と同じように。そして、この話しのどこにも玄霧皐月はでてこない。ただ、黄路美沙夜のうごきの後ろにうっすらといるだけだ。
 実際のところ、玄霧は幼少の頃に妖精にさらわれた。妖精に攫われると二度と家には帰れない――玄霧は必死に家へ逃げ帰った。でも数日のあいだ行方の知れぬと思いや何か、得体のしれない血にまみれてきた子を見て、親はいったいどう思っただろう? ――これが自分の子であっていいはずがない。彼男はその家の子供だと認めてもらえない――二度と家には帰れない。玄霧はけっきょく妖精に取りかえられたのだ。そのとき以来、彼男は自分の過去がわからなくなった。記憶がなくなったのではなくて、再認ができなくなった。たとえば人に会ったとき、彼男はその人の特徴をしらべて言葉として記憶する。髪が黒くてボブカット、身長140センチ程度、やせ気味、女性、服装は白黒を好む、云々……、みたいに。次にその人に会ったときに、彼男はまたその人の特徴を調べて、記憶のデータベースに同じ情報があれば、そのおなじ人だと認められる。でも普段わたしたちはこれと同じことをしているんじゃあないどろうか。ただちがいは、玄霧は厳密に言語の層だけを使うけれど、私たちはなんとなくの印象の層でやっているだけ。だからつまり、玄霧は、なんとなくの処理系と言語の判断系とをつなげることができない。そしてもうひとつ、彼男は或る一つの言語を喋れる。ありていにいってしまえば、それは神の言語で、一切の媒介無しに無機物的に相手に伝わる。もちろん玄霧は魔術を学んだうえでこの言語を身に着けたのだけれども、この言語を操れるというのは彼男の本質に属していて、というのも、玄霧に於いては世界のすべてが言語の層へと引き込まれていて、いわば言語以外のものは存在しないから、言語というものが世界の本質になっている。わたしたちの普通では身体的なところと言語的なところをないまぜにして生活しているから、身体的な感じをいちど言葉に翻訳して、聞くときは逆に、言葉を大なり小なり身体的な感じにまでつなげて理解している。でも玄霧にとっては世界とは言語だから、世界に直接話し掛けることができる。つまりそうしようと望んで宣言したことはすべてそのとおりになる――但し若し望めば。おなじ理由で、彼男は世界の記録を読むことができる。本人も思い出せないけれど痕跡としてかすかに残っている出来事を、そんな忘却の彼方にあることを読み出してくることができる。
 そんな彼男が礼園でいったいなにをしていたのか。彼男は再認ができない――他人のことも、そしてなによりも自分のことも。玄霧自身はまずは妖精に記憶をうばわれたのだと思って、忘却を読める力をつかって他の人の過去を読み、そこから自分の過去を読み出そうとしていた。でもやがて、自分は記憶を亡くしてなどいないことを知るようになる。記憶はあってもそれが自分の過去だと認めることができなかったのだ。自分を自分だと認めることができない――全てがまったくの他人ごと。玄霧はじぶんでなにを望んでいいのかわからず、他の人がなにか彼男にぶつけてもそれをそのままかえすだけ。それでも、玄霧はこわかった――自分がわからないこと、そして、人々が忘却しているさまざまなおぞましい過去が、無意識の欲動が。玄霧は自分もこんなおぞましいものになるのが恐かった。だから、彼男は彼男は鏡になって相手の姿をそのままうつそうとした、つまり、各地を点々と歩きまわって、この話しの時は礼園にいて、礼園のすべての生徒や教師の忘却を聞いて、その望みを相手にそのまま植え付けなおした――だから葉山英夫は四組の寮に放火をし、だから橘佳織は自殺をした。葉山を殺してしまった黄路美渉夜が相談しにきたときに、だから黄路は玄霧に妖精の術を学んで一年四組のみなを自殺へ追い込もうとし、だから玄霧の記憶を覗いて正に彼女の幻想通りに玄霧が彼女の兄だという「記憶」をみた。玄霧皐月は黄路の望みにあわせて四組のみなにそれぞれの忘却を書いた手紙を送った。彼男は動機の任意を駆動させる鏡像としてあらわれる。
 そして――それを知った黄路は玄霧を刺し殺す。その一節を全文引用します。

 その日の授業を終えて、玄霧皐月は準備室に戻ってきた。
 天気は何日かぶりの曇りで、廊下はモノクロームの写真のように静まり返っていた。
 準備室の扉を開けて、ゆっくりと眺めた。
 物であふれている彼の部屋は、けれど生活感というものが排除されていた。
 灰色の陽射しに照らされた、時が止まった準備室。
 その風景が玄霧皐月の記録してある情報と一致するか確認してから、彼は中に足を踏み入れた。
 ぱたんと、とドアを閉めた。
 「――――――」
 同時に、彼は鋭い痛みを覚えた。
 視線を下ろす。
 そこには見知った生徒がいた。
 彼女はナイフをもって、玄霧皐月深々との腹部を刺していた。
 「――――誰かな」
 静かに、彼は言った。
 生徒は答えない。
 ただナイフを持つ手を震わせて、顔をあげる事もできないようだった。
 彼は、そんな彼女の体を観察した。
 身長、体重、髪の色、髪型、肌の色、骨格。
 玄霧皐月が記録しているかぎり、この生徒の特徴を持っている生徒は一人しかいなかった。
 けれど――――
 「君か。私を殺すために待っていたんだね?」
 生徒は答えない。
 彼は一回だけ肩をすくめて、自らの手を彼女の肩におろした。
 優しく、彼女の恐怖を和らげるように。
 「ならもう行きたまえ。君の用件は済んだんだ」
 生徒は、その言葉にびくりと震える。
 玄霧皐月は、自らを殺す相手にさえ、優しかった。
 殺人をした事よりその事実の方が恐ろしくなったのか、彼女はナイフから手を離して走り去った。
 その背中を最後まで見届けても、彼にはわからなかった。
 あの生徒は、一体誰であったのか。
 色々な特徴はある一人の生徒を特定させていたけれど、ただ、その生徒とは髪型が違っていた。それだけで彼にとっては見知らぬ他人だった。髪型を変えただけだとしても、ただ一点が記録した情報と違うのなら――――玄霧皐月にとって、あの生徒は初めて見る他人なのだから。
 彼は自分から準備室のドアを閉め、内側からロックした。
 血を撒き散らしながら、部屋のあらゆる鍵を丁寧に締めていった。
 やがて体は動かなくなって、彼は壁に背をついたまま座り込んだ。


 ―――死は、どうという事はない。
 いつだって、私はこの結果を受け入れていた。


 彼は自らの体を観察した。
 血を流して赤く染まるそれは、今まで記録していた玄霧皐月の体とは違っていた。
 だからだろうか。これから死ぬのだという恐怖は、自己というものに似て、ひどく希薄だった。
 彼―――いや、私は今の玄霧皐月を採取する。
 ……出血はひどい。おそらくは助かるまい。
 死に至るまでの時間は、あと十分といったところだろう。
 さて、と一息つく。
 せめて死ぬまでの時間を、自由につかいきりたかった。
 だが十分は短すぎる。何を思い、何に答えがだせるだろう?
 いや、時間の長さは問題ではあるまい。
 彼は今生まれ、そして十分後に死亡する。
 いわばこの時間は彼の人生だ。これほど長い時間もない。
 さあ、何を考えよう。
 何を思索してみよう。
 今までの自分ならば何を考えるべきかでその全てを使いきってしまった。
 けれど、不思議とクリアになったこの人生の中でなら、彼は驚くほどスムーズに議題を手に入れた。
 ―――呼吸は荒い。
 ―――十分は長い。
 ―――出血は酷い。
 ―――人生は短い。
 空白に洗浄されつつある頭脳が、意味もなく彼の思考を口にした。
 「―――そうだ。
  まずは、生まれる前について考えよう」
 最期に、彼は答えに辿り着いた。
 究極の忘却とは、つまり生前の記憶だ。生まれる前の記録だけは、人は持っていない。
 自分が生まれる前の世界。それはとても無意味で、平和だ。ああ、苦悩はとても簡単なこと。
 「つまるところ、自分さえ生まれなければ、世界はこんなにも平和だった」
 嬉しくて、楽しくて、玄霧皐月は笑った。
 そんな事に何の意味があったのかわからない。
 ただ、一つだけ。
 この長い時間の中、彼は初めて、自分が笑っているのだと実感できた。

 玄霧皐月は永遠をさがしていた。その点は例の荒耶宗蓮もおなじだけれど、荒耶が永遠とは人が消えることだと結論したのにたいして(荒耶の章では「世界」と云う字に相克する螺旋――世界――と仮名が振られているところがあった)、玄霧は人が普通に生きてそれでも永遠でいられる結論がほしかった。

自分が生まれる前の世界。それはとても無意味で、平和だ。ああ、苦悩はとても簡単なこと。
 「つまるところ、自分さえ生まれなければ、世界はこんなにも平和だった」(強調ネム)

 忘却とは、たぶん唯一永遠なものだ。忘れ去られた過去は思い出されないかぎりそっと眠り続ける。でも玄霧は、忘却を呼びだしてしまう。自分さえ生まれなければ――どうしてここで彼男は笑ったんだとう。ここでは無意味と平和が結びつけられている。平和であること、平穏で苦悩もなく、永遠であること。でも――、意味ってなんだろう。
 思い出して。玄霧にとって、意味とは世界だった。人生とは、わかりきった、答えのでない永遠をさがしつづける戦いで、それは究極の意味をさがすさすらいだ。とっても窮屈な世界――それでも人生は生活する。意味とは記憶である。人というひとつの合成体となったそのときから記憶はある。誕生の前に記憶はない、それはとても無意味だ。たぶんこの場面でだけ、玄霧にかけられていた妖精の呪いは解けていた。こんなにも平和だ――ということは、今の自分が、つまり今の世界が無意味だということ。この無意味というのは、究極の意味がみつからない、意義がみつからない、ってことじゃない。究極の意味がみつからないっていうのは、やっぱり意味の系列の中にいる。無意味とは、意味をさがそうとしないこと、記憶がないことだ。究極の意味なんてなくたって、世界は消えたりしないと云う確信、特別な者にならなくたって、自分はちゃんと生きている。無意味であるとは、本当に、笑うことなんだろう。
 こういった誕生前の思想を最初に開いたのは、エドムンド・フッサールさんの現象学だ。彼男も永遠を求めていた。絶対に確実で、全てがありのままで、生き〳〵とした世界。可変なもの、不純な可能性があるもの、少しでも疑いうるものは永遠ではない。だからフッサールさんは、世界をふたつにわける――表象的な世界と超越的な世界に。表象というのは世界のあらわれで、世界の記憶のあらわれだ。どこからか表れて、また消え去ってゆくもの、それが表象。では、これとはちがって、超越的な世界ってなんだろう? それは、すごく純粋な、私以前の世界だ。
 経験のなかで、あらわれた表象はどれも永遠じゃない。たとえば「花」という言葉があるとする。ここで、「花」という文字、「はな」という音、具体的な花のイメージはどれも表象で、うつりかわりながらすぐに消えてしまう。でも、「花」という言葉が意識にあらわれる直前の瞬間のうごめき、「花」が「花」に成るそのときだけは、永遠ではないの? まだ時間のない忘却の一瞬だけは――在らざるものが有るところだけは。言葉でなくたっていい。たとえば夜空に月がみえたとする。ここで、見えた月だとか、月のイメージだとかは表象だ。そういったものを取り除いてけずって削って澄み切らしたときにのこる空無、月が月に成る瞬間の、まだなんの解釈もはいっていない忘却だけは永遠なんじゃないの?
 生まれる前の純粋性。
 ただフッサールさんの永遠は、玄霧の永遠よりも慎重で、玄霧の永遠が生まれる前の忘却の無意味なのに対して、フッサールさんの永遠は、意味が生まれる瞬間の、意味=無意味の平面のことをいっている。その平面は無意味の平和なんかじゃなくて、闘争の場、意味の焦燥と無意味の平和とが互いにつりあう空無だ。そこではあらゆる対立がうちけし合ってゼロになる。究極の意味との戦争はここでうちどめ。境界、均衡、いつ崩れるかわからない一瞬の平穏。
 ――そう、空の境界
 玄霧はこの空無をうめてしまった、いや、埋めてしまうことができた。記録がありえない忘却。というのも、彼男にとっては世界とはただ意味だけだったから。無意味の実感に裏打ちされない意味を、だからさっさと捨ててしまうことができた。そして、無意味の象徴として、意味の忘却をすっぽりうめてしまったのは、やっぱり無意味な笑いだった。


♪ 20070212


 ――寒い雪の振る夜の下で、黒桐幹也は「両儀式」に出会った。


♪ 20070213


 黒桐幹也両儀式とであったのは、そのときが二度目だった。
 いちどめは、黒桐が中学生だったさいごの夜、まだ式とも織とも出会う前で、やっぱり綺麗な雪が降る夜だった。一九九五年の三月、冬の夜、家に帰るとちゅうに幹也はひとりの少女をみかけた。少女はただぼんやりと空を見つめていて。帰りついて寝ようとした時に彼男は少女のことをふと思い出し外へでた。少女はずっとそのまま立っていて、幹也は声をかけた。十年来の友人のような気軽さで。きっと、あんまりにキレイな雪だったから、見知らぬ誰かとでも一緒に遊びたくなったのだろう……。
 それが、「両儀式」だった。
 奈須きのこさんの著、『空の境界』には三つの終焉がある。ひとつめは「殺人考察(前)」の終わりで、織の死のとき。ふたつめは「殺人考察(後)」の終わりの、式と空虚の物語の終わりであり、式と黒桐との物語のはじまりのところ。みっつめは最後の章「空の境界」――「両儀式」との二度目の出会いそして別れだ。
 一度目の「両儀式」と黒桐との出会いは描かれていない。
 そして、式と黒桐は――家が近かったからだけれども――おなじ高校に入った。このときはまだ織がいた。というのも、式は二重人格者(――と言うのは不正確かもしれない、寧ろ、一つの体に二人が住んでいると云う感じ)で、一人は女性人格の式、もう一人は男性人格の織。体と性別が同じ式のほうが主人格で、式は女性、織は男性、式は肯定、織は否定、式は陰、織は陽……、というように、式と織は陰陽の対極の両儀を成す。性別は社会通念といったほどのことだ。織は殺人衝動で、式はそれを扼殺する。ふたりは反対だけれど、でもそれなりにうまくやってきていた。二人とも静かな場所が好きで、人嫌いだった。周りの人もその冷たい雰囲気を察して、近寄ってこなかった。式と織はそれぞれ満足していた。――でも、そこに黒桐が現れたのだ。式は別に人をつっぱねていたわけじゃなかった、ただ周りに興味がなく、冷たい返事しかしなかっただけだ。他人はそれを拒絶する。でも黒桐は話しかけるのを止めなかった。そんなことは式にとって初めての経験で、戸惑った。式は確かに人嫌いで、一人でいるのが好きだったけれど、やっぱり孤独でさみしかった。二人がそれで満足していたのは、他の生き方をしらなかったから。でも、黒桐があらわれて、黒桐といっしょにいられたら、もし黒桐のような生き方ができるのならと夢見たとき、式と織の保たれていたバランスは崩れてしまう。織が黒桐に魅かれていったとき、彼男は殺すことでしか相手とかかわれないから、このままでは黒桐を殺してしまう。一方で式は、自分が人を殺す事態を避けたかった。だから黒桐を自分から遠ざけようとした。織は黒桐に会いたい、おなじ理由で式は黒桐を遠ざけたい。でもね、それと同時に織は黒桐を遠ざけたかったし、式は黒桐に会いたかった。というのも、織は黒桐というカタチを消してしまいたくはなかったし、式だって、黒桐に魅かれていたのだから。でも、自分が黒桐に魅かれていったら、いづれ織が黒桐を殺してしまう。そして、両儀式/織というありかたは異常なのだと露呈してしまう。――だから式は黒桐を殺すことにした。織ではなく、式が。
 でもこの殺しは失敗した。それはなによりも、式自身が、〈殺す〉というのは迚も重大なことだとしっていたからで、おまけに式は、やっぱり黒桐を殺したくなかった。

 「……コクトーといると苦しいのに。わたしには手に入らないものをみせつけるから、こんなにもわたしは不安定になってしまう。
 だから―――殺さなくっちゃ。消えてしまえばもうユメを見る事もない。こんな痛いだけのユメも消えて、わたしは以前のわたしに戻らなくっちゃ――」

 式/織と黒桐はいっしょにいられない。でもそのユメを消すこともできない。だから、式は自分のほうが消えることを選んだ――「おまえを消せないのなら―――わたしが、消えるしかない」と言い残して。
 ――これが、織の死だった。もちろん式は自分が消えようとした。でも織は、式に黒桐といてほしかった。ずっと式に抑圧されてきて、夢見ることが好きだった織。織も黒桐という存在に魅かれていた。けれど、自分と黒桐はいっしょにいることはできない。ならばせめて、式には黒桐といっしょにいてほしい。式にはその夢がかなえられるはずだから。――こうして織の死の代わりに式は生き残った。いや、たしかに式は死んだのだけれども、「死」の中で「式」というカタチを保ちつづけ、そしてまた生へと浮かんできたのだ。
 こうして式は生まれ代わったわけだけれども、以前の式と生まれ代わった式にはただひとつ、まったく違うことがあった。式には記憶がなくなっていたのだ。――忘れたわけではない、再生することができるという点では全く憶えていたし、それが自分の記憶だとわかるから、玄霧皐月とはちがって再認ができなくなってるわけでもない。銘記も保存も再生も再認も、どれもきちんと働いているし、記憶の回路のどこにも欠落はない。さらに拡げて言って、知覚の回路にはなんの欠落もない。問題があるとすれば、知覚したことを了解するしくみの方。理由は、両儀式の中から織が消えてしまったからだ。それまで式と織はずっと一緒にいて、互いに相手を埋めていた。式というカタチ、織というカタチは、それだけではそれぞれ欠落でしかない。式は織に成り、織は式に成ることでバランスが保たれていたのに、そこにズレがでてきて、そして織は空虚になってしまった。式は自分がなにになっていいのかわからない。自分に自身がもてないし、どう生きればいいのかわからない。生きる理由――そんなものを求めるのは哀しいこと、でもそれは絶対に必要だ。たぶんこの世には黒桐がいるという理由で、そして空虚と織の残した記憶と想いを連れて、特に死ぬ理由もないということで、式は生きてゆくことになる。世界と極限で渡り合える殺し合いを、殺人衝動と思い定めてそれを唯一の嗜好として。
 あるとき式は巫条霧絵と出会った。

 「死に寄り添わなければ生きていけない巫条霧絵は、おまえとは似て非なる属性だった」
 ……いつ死ぬか判らない病魔に蝕まれた巫条霧絵。それは死を通してしか生きていると実感できないひとりの女性。……一つの心に二つの肉体を持った能力者。
 そして。
 死に寄り添って、それに抗う事でしか生きている事を感じられない両儀式。……二つの心に一つの肉体を持った能力者。

 死に依存して浮遊する二重身体者。
 「死の身近にありながら彼女は死を、おまえは生を選んだ。」
 自らの生の理由に耐えられなくて、別の自由がほしくて現実からの飛行を望んだ彼女。自由なんて、いつでもここにあるものなのに。
 あるとき式は浅上藤乃と出会った。

 「死に触れる事でしか快楽を浅上藤乃得られないは、おまえと似て非なる属性だった」
 ……痛覚がないために外界からの感情を受け止められなかった浅上藤乃。それは人を殺すという終極的な行為からしか快感を得られなかったひとりの少女。人を殺して、その痛がる過程と優越感でしか生きている事を感じられなかったひとつの人間。……能力を人工的に閉ざした旧い血族。
 そして。
 死に触れて、互いに殺し合う事でしか自分と、他者とを感じられない両儀式。……能力を人工的に開いた旧い血族。

 死に接触して快楽する存在不適合者。
 「命を潰しながら彼女は殺人を愉しみ、おまえは殺し合いを尊んだ。」
 自らの無感動に耐えられなくて、生の嬉びが欲しくて幻想の自閉と生命への制御を望んだ彼女。生の嬉こびなんて、生命が制御できずに死ぬものだからこそあるものなのに。
 あるとき式は玄霧皐月と出会った。

 「きっと――玄霧先生は、そこで止まったままなんだわ」
 「なるほど、それが直視の魔眼というものですか。ワタシはすでに通ったあとの道しか聞き取る事ができないけど、君は通っていく道筋を見れるんだね。……ふむ。過去を記録できる私と、未来を視る事のできる君。荒耶が私を呼びだした理由は君の消去にあったようだ、シキ君」
 「やっとわかった。おまえはさ、鏡のフリをしているだけだ。そうやって無害なフリをしているだけなんだよ。責任を他人に押しつけて、まるで子供のままじゃないか」

 世界の汚れた恐さと自分の汚れた恐さに耐えられなくて、自覚による浄化を望んだ彼男。でも、自分が他人とおなじだってことを、彼男はだれよりも知っていたはずなのに。
 あるとき式は荒耶宗蓮と出会った。

 人間は救われない。世界に救いなどない。だから死を記録しようと思った。物事の最後までを記録して、世界の終わりまでを記録して、一から最後までを検分する。その上でなら、一体何が幸せだったのか判別がつくだろう。
 「私は何者でもない。ただ結論が欲しい。この、醜く汚く下衆で蒙昧な人間ども。奴らが死に絶えた後、歴史にそれしか残されないのなら――その醜さこそが人間の価値だったのだと結論できる。醜く、救われない存在こそが人間なのだと、私は安心できるのだ。」

 数多な人類の醜悪や執念と戦って心底勝つ程に自我を鍛え上げた地獄。
 それは自ら悟りを得て世界を救済する、菩薩のようだと言って、言い過ぎではない。一つの極限として、立派だといえるのだが。
 あるとき式は白純里緒と出会った。

 初めて人を殺して、荒耶宗蓮という人物の誘いにのった時から、白純里緒は着えていた。
 狂人としてならば存在できるという理論武装をした彼は、同じ殺人鬼である両儀式を求めた。自分と同じ殺人鬼がいるのなら、自分が正当化されるから。おかしいのは自分だけじゃないって安心できるから。
 「……生まれた時から理由もなく殺人を嗜好してしまう式と、自分を守る為に殺人を嗜好していると思い込んだ白純里緒」

 死に逃避して自我する起源覚醒者。
 それは迷いで、自我のアイデンティティーがどこかにきっとあるはずだと迷う儚い期待。その意味で、彼男は常人だったし、運命に従うこともできなかった。
 そして式は白純を殺した。同時に織の死を受け入れたし、黒桐への想いを意識に容れたということでもある。
 黒桐への想いは無意識だった。無意識とは抑圧である。式はずっと前から黒桐への恋心を知っていた。だけど自分を特別なものとして志向していた式にとってそれはアイデンティティーに恐怖をもたらすもので、だからこの恋心は織に預けられていた。織は式にとって秘密の遊び場だったけれど、社会に適応するにつれてだん〳〵と抑圧していった。つまり、式は自分の黒桐への恋心を知っていた、でもそれを知りすぎていた為に想いは秘密であった。知りすぎている時は大抵は的を射ているというよりも穿ち過ぎであるもの。この場合もそう。式が黒桐への想いを認められたのは、この恋心が過去のものになってからだった。自覚とは常に、自分の過去を見ることだから。だから式はもう死の際に生きる実感を求めなくてもよくなった。死の反動として生を満たさなくても、もう黒桐がいる。頼ればいい、助けてもらえばいい。これもまた抑圧された無意識であった、信頼を、自覚したのだ。――此所から、空の境界は終焉へ向かう。式は罪を背負って浄化され、黒桐とともに日常へつづいてゆく。
 無意識の秘密を語ったのがジークムント・フロイトさんなのなら、彼男に終焉へ向かわせる力に就いても語ってもらうのがいいかもしれない。精神分析に於ける〈治療〉とは何かと云う問いは、医術の治療とはまったくべつの性質をもっている。というのも、外科 – 内科 – 精神科の医術では〈病〉を取り除くことがただ治療の目的なのだけれども、精神分析にとっては〈正常〉もまた〈病〉から成り立っている、というよりは寧ろ、精神は〈抑圧〉にはじまる〈病〉を基にしている。だとしたら多分、精神の正常は、どの抑圧が〈病〉でまたどれが〈正常〉かを選り分けることにある。病者と精神分析医との対の関係で〈病〉と見做された抑圧が精神の異常となり、治療の対象になる。この〈治療〉というのは、明らかにすること――症状形成の構造、抑圧の理由――必然を、対の必然を自身へ返すこと。そして必然は終点を見定めて、一気呵成に駆け付ける。つまり、意識とは抑圧なのだから精神分析の〈治療〉は終わらないはずなのに、この行程は唐突に終わってしまう。意識は治療を抑圧にしてゆく。
 式が織と黒桐とを受け入れたあとに、黒桐と両儀式との物語が付けられるのは、たぶんその所為だ。式と織の基体となっている両儀式、と黒桐幹也、この二人の出会いと別れは、最終章「空の境界」全体の裏地である。

 深夜零時。道には人の姿はなく、ただ街灯の明かりだけが雪のヴェールに抵抗している。
 暗いはずなのに白く染まった闇の中で、彼は散歩に出かける事にした。
 とりわけ目的があった訳ではない。
 ただ予感だけがあって、その場所へ歩いてみた。
 黒い傘をさして、降り積る雪の中を歩いていく。
 果たして、そこに彼女は立っていた。
 四年前の日と同じように。
 彼と彼女はとりとめのない、わずかなコトを語りあった。
 彼はいつもどおりに話して、彼女も楽しそうに聞いている。
 ふたりの関係はいつもの関係と変わらない。
 けれど、ただ、彼女だけが違っていた。
 彼女は彼との違いを悟っていく。その、決して混ざり合えない絶望だけを。

 身体と脳だとか、「 」(空)だとか、そんな無駄な理念はどうでもいい。ただ、物語に終焉があって、此の章を必要としたということ、ここから「空の境界」の過去と未来が一望できる。死とは無ではなく、そこから生前と死後へと分かれてゆく、日常から死後へとただ反復してゆく――消え失せる。

 そうして、彼は彼女を見送った。
 もう永遠に会えないことはわかっていた。
 雪はやまず、白い破片は闇を埋める。
 ゆらゆらと、羽のように、落ちてゆく。
 ――さようなら、黒桐くん。
 彼女はそう言って、彼は何も言えなかった。
 ――ばかね。また、明日会えるのに。
 彼女はそう言って、彼は何も言えなかった。
 
 
 彼はいつかの彼女のように、ただ雪の中で空を眺めた。夜が空けるまで彼女のかわりに見続ける。
 雪はやまず、世界が灰色に包まれた頃、彼はひとり帰路についた。
 黒い傘はゆっくりと、行き交う影さえない道を流れていく。
 白い雪のなか。
 朝焼けに消えてゆく黒はこの夜の名残りのよう。
 ゆらゆらと、独りきりで薄れていく。
 けれど、寂しげな翳りもみせず、彼は立ち止まることなく帰り道を辿っていった。
 四年前、初めて彼女と出会った時と同じように。
 一人静かに、ただ、雪の日を唄いながら。


End 20080721


 引用は特に断りが無い限り、奈須きのこ空の境界』から行った。

 タイプしていて思った事だが、この物語は全くの日常である。或る構造を切り出して、差異を裁断として示せばこうなる。あとは小説の現在の論理に載せるだけだ。『DDD』が特異化しつつ完成を目指している、『月姫』は未完成なのに対して、この『空の境界』は奈須きのこの単純な原型を示すものかもしれないのだと感じた。つまり、個と対は違うのだ、ということだ。ただその解決を図っても、交通をつけようとはしない事は、ただ資質に依るものだろう。しかし人はいかなる幻想をも捨てることはできない。
 また終焉の構造も、数年来の興味であるが、まったく進展をみていない。どこに入り口があるかもさえ不明である。今回は意識の構造から少し触ってみた。


井上ネム:
 最終章の記述期間が異常に長いのは、別に一年以上掛けてじっくりやっていたなんて殊勝な事ではなく、其の期間殆ど何も書かなかったのである。御免なさい。
 法・存在倫理「Ⅰ」とあって、じゃあⅡがあるかと云うと、予定はない、書けそうな時が来たら書く、という曖昧至極な返答をするしかない。私も自分に期待したい……などと怠惰に過ぎるのも考えものだが。
 この文章は、ネムが奈須きのこ空の境界』へ対して書いたものであり、シキが修正、一部加筆している。


麻井シキ:
 なんか一部わたしが書いてるんですけど、いいんですか?
 基本は校訂をやらせていただきました。いいまわしの調節ですね。わたし散文は得意じゃないのにね。でもワープロで校訂って、わたしにゃむずかしぃよ……。
 あげくにいつのまにか紋章が決まってるし。 ――シンプルダネ。
 そういゃわたしのペンネームの由来ってこの小説なんだよね。びっくりだね、なつかしくて。


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