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監視/管理 - 井上ネム - c4se更新

「監視/管理」
 http://c4se.sakura.ne.jp/ne_kansiKanri.pdf

監視/管理

ミシェル・フーコーに於ける監視と管理の概念を軽く取り上げたい。ただしフーコー自身の論には触れない。
監視とは視線である。規律の理性がそのモデルだが、つまり、人は世界を区画化する。或る領域を統御するような視線がそこでの理性である。一つの域があり、そこに一つの精神が関わるとき、精神は絶対の視点を想定する。視点は秘密である。秘密として自らに与えるわけで、ここからの超越論的視線が監視の面を構成する。理性とは先験的な真理ではない、寧ろア・プリオリな真理は存在しえない。世界という場所と共に真理はあるのだから、真理はア・ポステオリ、或いは寧ろ存在と共にあると言うべきだろう。
域を分割する理性をモデルとして監視は現れる。管理の概念は別のもの、データがそのモデルとなる。データベース、検索、接続、遮断、流通、アテンション。ここではネットワーク状の〈帝国〉=マルチチュード権力が現れる。私が親しんでいるところでインターネットだが、Google、Yahoo!、Windows Live、Ask.com、Baidu.jp等のデータベース群がある。管理は一極へ集中することはない。物(人である事もある)は側面のデータへ切り分けられ、其々のベースに整理される。
私はここで〈アテンション〉という概念を発端したい。それは、カール・マルクスの価値概念に興味があるからだ。
恐らく価値概念の系譜を述べなければならないだろうが、取り敢えずはアダム・スミスだけでよい。例えばここに一個の蜜柑があるとして、その価値は、或る者が蜜柑の所へ行き、木に登り、蜜柑を�いできたその労働の量で決まる。こういう描像は、たぶん原始のころには成り立っていた。だが工場労働の中ではおかしなことになる。或る工場で机を大量生産する、又或る者がおなじ机を手作業で作る。この両方の価格は同じでなければならないが、明らかに工場生産の方が一個当たりの労働量は少なくすむ。ここでマルクスは時代の水準を使ってスミスの価値を拡張する。価値とは〈一般的人間〉がその物を生産するのに必要な労働力で決まる、と。
これで何が変わるかというと、価値の中に「人間」という概念が入ることだ。スミスの時にはただ疲労が価値と等置されていただけだが、マルクスでは人間のカテゴリーが価値と関わっている。そしてこのカテゴリーはフリードリッヒ・ウィルヘルム・ヘーゲルを基にしている。自然–植物–動物–人間と、階梯に遅延してゆくモデルだ。そして価値は、人間が自然へ伸びてゆき、自然が人間へ伸びてゆく、労働の領域で発する。人間は自らを身体=〈有機的自然〉とし、逆に自然を製品=〈非有機的肉体〉とする。これがまったく相補だから、マルクスでは生産と消費が相補である。
現在でマルクスの概念に修正を加える必要があるとすれば、ここだ。彼男の〈剰余価値〉という概念は、人間の身体のもつ〈贈与〉の性質からきている。身体の労働量には限界がある。その使用を補うために労働者は金銭や食料・サービスを消費して肉体・精神を生産している。しかし労働力が物理でのエネルギーのように全体で保存されるのであれば、ただ価値は社会を回るだけで、利潤はいたるところで存在しえない。どこかで価値の増加が成されねばならない。それが人間の身体からの贈与だ。人は与えられる価値以上のものを生産して、なおも余力をもつことができる。産業の時代以前は、この贈与の源は自然であり、大地や海であった。産業の重要性が追われてしまうような社会では、身体の贈与も比重は軽くなる。だがこの場合、比重が軽くなるだけで、消えるのでは決してない。必要なのは、身体概念の改練だ。
或る原料から商品をつくる、売れる商品を作れば売れる、というのが産業社会である。原料を商品にするのに規律の工場が動き、労働者は協働する。監視の情況だ。管理の世界では、価値を贈与するのは労働者ではない、個人だ。こういえば、身体の贈与が精神の贈与になったといってもあまり過誤はない。人間概念が身体と精神とに分岐したといってもいい。価値も、生産–消費の労働力による贈与と、流通(市場–遅延)の〈アテンション〉による贈与とに分枝する。

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精神とは身体の入口と出口との間隙であり、処理による遅延である。人類ではなく、個人はそこのみにいる。個人から見るかぎり、個人のほうが人類よりも基本的である。データベースやネットワークが個人の同平面の無意識であり、内部=外部の折り目を紡ぐ。これが動物的なのは完備な個人がまだできたばかりだからだ。だがもう植物的な段階は過ぎた、ということでもある。ここから対自=対他な様式になるまでどれだけ掛かるかはわからない。それはもう〈アテンション〉が遺制になり始め、予制が兆してくるころだろう。十年前は精神はまだ予制だったが、今やもう現制としてもいい頃合いだ。

参考文献

後学の為、挙げておく。私の文章は事前の知識は余り無くても読める(知らぬ事は飛ばせばよい)が、後学の時間を要求する。なにより私自身がそうしている。

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)フーコー (河出文庫)マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)
ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)カール・マルクス (光文社文庫)情報様式論 (岩波現代文庫)

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資本について一切触れてない点が第一の反省か。
わからない用語は、日本語・漢字の意味どおりに取って、余計な事は考えないのがよい。