たまごまごごはんさん「神経に棲まう少女像を、「lain」から考えてみる。」
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20080202/1201885535
でですね、私が思うに、萌えや愛着心を二次元三次元問わず感じてしまう要因の一つとして、
その女の子を「過去の自分の異性化」或いは「自分の記憶の異性化」として認識しているある種の解釈が、脳のどこかでなされているからではないか、と思うのです。
安倍先生の描かれる少女は、奇妙に広がる、しかし枠の中に閉じ込められたような世界の中心にすえられることが多いです。玲音はまさにそういう光景の似合う娘さんでした。
世界の中心にたたずむ玲音。廃墟のような空間で何かを見つめる玲音。ケーブルでぐるぐる巻きの玲音。
この世のものではないような顔をしておきながら、この世のど真ん中にいるというアンバランスさ。生きているのか死んでいるのかすら分からないような表情と存在感。
ストーリーでの存在感もさることながら、妙に神経の部分に巣食っているような感覚に襲われるのですよ。
目を閉じても、そこにいる少女。
そんなイメージにとらわれる経験がまれにあります。
わたくし、男性の中にも、女性の中にも、一人(or複数)の少女が住んでいる、というのが持論です。
ええ、難しい心理学の話とかは分かりません。でもね、自分の鏡のような役割の少女の姿を、かなり多くの人が抱えている気がするのです。少年をたたえている人もいますが、それとは別に。
「好きな少女像」とは違うのですよ。「萌える少女像」とは違うのです。
どうしても消えてくれない、脳の中で一人立ち尽くして何かを見ている少女です。人によってそれぞれ見た目は違うでしょうし、時には自分の中でもコロコロ変わるでしょう。よく話すかもしれませんし、無口でだまりこんでいるかもしれません。もう大人になりかけているかもしれないし、まだ幼児かもしれません。
そんなアンバランスさも、「少女だから」。
まあ、「妄想だよ」と言われたら全くもってそのとおりなんですが、自分の中には言葉で形容しがたい少女がいます。いや、もしかしたら少女のカタチをした何かなのかもしれません。
それが、こっちを見ていることもあれば、こっちを見るでもないこともあります。
僕にもいますよ。僕の場合、それは詩の源泉で、魔女です。
甲田学人『ミッシング』の十叶詠子みたいな。
住んでいる。他人が、私の奥の、死角に住んでいる。ときどき視える。こっちをじーっと視ている。じーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと視ている。
幽霊。
怪異。
異界に住んでいる。それは、気のせいだ。
「気のせいは異界の入り口である。」