c4se記:さっちゃんですよ☆

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マイノリティの生き残り方

看護実習おわたー!!
わぁ、看護士さんたいへんだー!!!

はて。
dimblaさん(歩く姿は燕子花)「マイノリティとしての自覚」
 http://d.hatena.ne.jp/dimbla/20080108/1199813912

マイノリティは少数派です。多数派と考え方が違うから、理解されないから、袖を判ってきたのです。私は、これをマジョリティに押し上げようとする動きを、即ち、マイノリティの考え方を(過剰に)世間に流布する行為は恥ずべきものである という考えを持っています。「嫌いなら見るな」にも関わりますが、「知らないのなら、それで困らない限り知らないままで良い」です。ですから、「オタクの地位向上」的なイベントであったり、議論であったりが死ぬほど嫌いです。もう恥さらしだとしか思えません。
自分がマイノリティであることを「選んだ」のですから、その時点でマジョリティに理解されないことくらいは自覚して然るべきです。その「理解されないこと」を「マジョリティによる攻撃である」と考えるのは筋違いであり勘違いです。理解されないからマイノリティなのです。前提を履き違えてはいけません。

これが極論だということは、痛いくらいに承知しています。ですが、長い歴史においてマイノリティとマジョリティが平穏に共存できた例など数えるほどしかないのです。魔女もユダヤも迫害されてきました。慎ましく、目立たないように生きていること、マイノリティが自らの身の丈をわきまえて生きていくこと以外に出来ることはない というのが悲観的な共存論ではないでしょうか。
(楽観的な共存論としてはマジョリティが寛容力を持つとことが挙げられますが、絶対数が違うのですから、どう考えてもマイノリティが何かをしたほうが早いですし)

マイノリティ/マジョリティのそれぞれが、どこまでを共同の内だと感じているかの問題。人が何かを援助するとき、近しい者から優先順位を降ろしてゆく。だが少なくとも、マイノリティであることを「選んだ」のではない。なったらそれが「マイノリティ」であった。
アーネスティン・ウィーデンバックの〈援助へのニード〉という看護学の概念がある。この前の看護自習中に『臨床看護の本質』を一読しただけだが、看護は患者の〈援助へのニード〉を満たすべく行動を計画すべきだ、といものだ。実際はそうもいかず、この概念はもっと細かなチューニングをせねばならないだろうが、それはまた今後。看護では患者が最も近しい必要がある。マイノリティにはマイノリティが近しいし、マジョリティにはマジョリティがとても近しい。だがマイノリティのはそうも言ってられない事情がある。マジョリティはマイノリティを近隣から排除しても「恐らく」害はないが、社会がマジョリティで占められている以上マイノリティがそれだけで籠もるわけにはいかない。マイノリティは自分がいながらもマジョリティに支えてもらわなければならないのだ。
だからマイノリティは自分たちが何かをマジョリティへしなければならない。強制恩を売るしかない。
つまり生き残るための可成の信念が必要です。勿論全員が持つ必要はない。信念を売る専門の奴が孤軍奮闘すればいい。
赤松智弘さんからはもっと拾ってゆくつもりだ。