小飼弾さん「自己責任から自己権利へ」
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51009734.html
まったく賛成できない。
赤木さんじゃないけど、やっぱり自己責任ですか?
幸福を得たいんなら勝手におし、と言いたい。もちろんこれに対して「幸福」の定義を持ってくるのは無意味だと先回りしておく。〈幸福〉を得るという考えへ向けて異義教条を唱えたいからだ。
倫理とは人が「こうすべきだ」と指示するものであっていいとは思えない。でもそうあるしかない。それはよい。
しかし倫理の理由とはなにか。或る倫理がその或る倫理であるような理由、はなにか。
小飼さんの言葉を借りるが、自己責任を負えるのは自己権利を行使した人のみである。
小飼弾さん「記憶とは、傷である。」http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51008678.html
しかし、記憶とは傷なのだ。嬉しい記憶も怒りの記憶も哀しい記憶も楽しい記憶も、すべて傷のなかにある。結局のところ、傷つきたくなかったら何も見ず、何も聞かず、何も嗅がず、何も味わわず、何も触らないしかない。
その意味で、「傷」という言葉にネガティブな気持ちしか抱けぬ人々を私はかわいそうだと思う。しかし愛しいとは思わない。私が愛しいと思うのは、ありのままに傷つき、その傷を読ませてくれる人々なのだから。
と言えるのは、傷を愛おしいと思えている人だけなのだ。今救われていない人は永遠に絶対に救われない、というのが倫理の厳密解である。
ならば倫理は要らぬ。なにか。なにかを。
因みに私は倫理を捨てる積もりはない。少なくとも今の日本では倫理とは生活とほぼ同義だからだ。
しつこく言うが、倫理の理由とはなにか、を存在倫理の分野では考えてゆく、わたしが。